棟居刑事の凶存凶栄

〈二重幸運/凶存凶栄/殺意の演出/切窓の風景/余命の責任/余命の私刑/余命の休戦〉

【著者解説 2002/10/4】

同じ国語を話す人間の間でも、その人の文化圏、イメージ、情緒、職業、生活環境、習慣等によって、その意味が異なってくる。そのちがいが誤解を生ずる。その人独特の誤字や言葉の誤用もある。幼いころから自分が信じ込んでいた言葉の意味が、辞書をひいてまったくちがうことを発見して愕然とすることもある。人によって嫌いな言葉や苦手な言葉もある。敬語の使用法などは日本人にとって最も厄介な言葉遣いであろう。「役不足」と「役者不足」はマスコミでもほとんどまちがって使われている。「情けは人のためならず」というたとえの意味も、年齢層によって異なってくる。

私が苦手な言葉は、「前提」である。辞書をひくと、あることが成り立つための前置きとしての条件と解説されている。また推論の基礎となる命題とも書かれている。
例文としては、
(1) 原状回復を前提に土地を貸す。
(2) 他言しないことを前提に打ち明ける。
(3) 結婚を前提として交際する。
(4) 拉致問題の解決が国交回復の前提だ。
(1) は原状回復しなければ土地を貸さないという意味であるが、まず貸すことが先行して、次に原状回復がくる。
(2) も、まず話すことが先行して、他言しないことが後にくる。
(3) 結婚を前提とすると、なんだか結婚が先にきて、交際が後になるような気がする。
これは「結婚を前提として」に、「結婚を(する)前提として」とすれば意味が通りやすくなるであろう。
だが、(4)は、まず拉致問題の解決が先行しなければ、国交回復はないという意味に使われている。

前提という用法はその時どきによって前後が逆転するように感じられて仕方がない。私の語感が誤っているのであろうが、とにかく苦手な言葉である。このような同じ国の言葉でも言語感覚のちがいからヒントを得て、この作品を書いた。おもえば小説とは、言語感覚のそれぞれ異なる読者に対して、最大公約数 的な辞書という檻に閉じ込められた言葉を綴って、作品世界を提供するのであるから、かなりの勇気と厚顔無恥を”前提”としなければならない。

徳間書店
1997.5
*徳間書店
2003.2
徳間文庫
2006.1
角川文庫
2010.5

*は新書サイズ、()内は別題名、複数作品収録の場合ならびに長編選集は〈 〉に内容を示した。◇は再編集本など。


←ひとつ前のページに戻る