作家のあるべき姿勢

 五、六年前、山村正夫さんから電話が入って、
「笹沢さんが危ないそうだ。佐賀へ行く準備をしておいてくれ」
  と言われた。

 笹沢さんが舌に癌を発して入退院を繰り返しているという噂は聞こえていた。だが、そんなに危険な状態に陥っているとはおもわなかった。私はとりあえず仕事に一区切りつけて、山村さんからの次の連絡を待っていた。だが、そのうちに各小説誌に笹沢作品が掲載され、単行本や文庫の出版が相次いだ。山村さんに電話をかけて問い合わせると、
「あの人は凄い生命力の持ち主だよ。盛り返したようだ」
 と言った。そのうちに山村さんの方が先に逝ってしまった。

 笹沢さんとは山村さんから紹介されて、三十年に及ぶつき合いであった。主義・主張も、性格もまったく異なる我々であったが、心に通じ合うものをおぼえて、同志としてつき合ってきた。

 三百五十冊達成記念パーティーを佐賀・嬉野温泉で開いたとき、井本知事や祥伝社前社長伊賀弘三良氏、親しい人々、山村さんや夏樹静子さんや、担当の編集者諸氏、そして私も招ばれた。井本知事の挨拶にはじまり、祝辞と共に各社編集者から笹沢さんの面目躍如たるエピソードが次々に披露された。

 中でも凄かったのが、K書店のF氏が語ったカーター元アメリカ大統領とのインタビュー顛末記である。ガーナへ取材旅行に行った笹沢さんは、たまたま現地でカーター氏と行き合わせた。

 笹沢さんがインタビューを申込むと、日本の流行作家と聞いてカーター氏は興味をもったらしくアポイントメントが成立した。だが、面会直前になって笹沢さんが、急に会う気がしなくなった、アポをキャンセルしろと言い出したという。カーター氏は約束の場所に来て笹沢さんを待っている。いまさらキャンセルできるものではない。愕然としたF氏は笹沢さんになり済ましてカーター氏と会ったそうである。その様子がテレビで世界に報道された。真偽のほどは確かめていないが、笹沢さんならあり得そうなエピソードである。

 三百五十冊の祝宴は大いに盛り上がったが、冊数としてはちょっと半端な数に、出席者のだれもが、すでに病いを発していた笹沢さんが四百冊は無理と予感して、それとなく別れを告げていることを察していた。賑やかで楽しい祝宴であったが、底流に寂しさが漂っていた。

 人生の途上、何度も死線を潜って来た笹沢さんの作風は、無常観を基調とし、『木枯し紋次郎』に代表される、「自分には関わりのないこと」と冷たく突き放しながら、常に優しく関わっていく。生涯を彩る数々の華やかな艶聞は、作品に艶(あで)やかな艶(つや)をかけたが、笹沢さんの胸にえぐられた無常観を満たしきれなかった。

 満たしきれない空虚を埋めたものが酒であった。病いと酒と女は笹沢さんの人生の要素であった。この三要素を栄養源として三百八十冊(三冊は近刊予定)を積み重ねていったのである。だが、この三要素は栄養源であると同時に、作者を滅ぼす両刃の剣であった。両刃の剣を武器に三百八十もの作品を切り取ったのは、心身共に尋常の力ではない。晩年、入退院を繰り返しながら執筆をつづける笹沢さんには鬼気迫るものがあった。

 三百五十冊記念後、日本ミステリー文学大賞受賞パーティーや、十余年ぶりの帰京を祝した隅田川遊覧船の宴、また年に一回の佐賀文学賞選考会などを重ねるつど、笹沢さんにお会いしたが、会う度に、笹沢さんは遠ざかって行くような気がした。

 私は笹沢さんとの別れが近いことを覚悟していた。楽しく賑やかに酒を酌み交わしながら、笹沢さんとの間に生死の距離が開いていく。笹沢さんは死生無常と達観しているようであったが、残される身は辛い。

 この間、私はそれとなく笹沢さんの伝説を一つ一つ確かめた。伝説は伝説のまま烟(けむ)らせておくべきであるともおもったが、私は笹沢さんの生き方を私なりに確認したかった。三百冊達成記念に、笹沢さんから、本を象(かたど)った置時計をいただいたが、これにフランス語で「謎の男」と書かれている。私は伝説を確かめれば確かめるほど、笹沢さんの生き方と存在感に圧倒されていった。

 笹沢さんの謎とは、存在感が大きすぎて量れないという意味であると悟った。訃報を聞く数日前、病の床に見舞ったとき、面に死相が浮かんでいたが、眼光鋭く毅然としていた。笹沢さんは私を見ると、「恥ずかしい」と一言言った。四百冊達成を目前にして、命が尽きることを恥ずかしいと言ったように聞こえた。もし、それが恥ずかしければ誇るべき恥ずかしさである。

 常時月産千枚の超人的執筆量に耐え、質量共に他の追随を許さぬ三百八十冊を築いて、なおも積み残した作品に無念を残す笹沢氏こそ、作家のあるべき姿勢を提示していると言えよう。「作家は書かなければ存在しないのと同じだ」と笹沢氏は言ったが、いま笹沢氏を失い、その存在と業績の偉大さに茫然とするばかりである。

 笹沢氏は何度生まれ変わっても、必ず作家になるであろう。笹沢氏の死去と共に、我々は昭和の重要な部分を失った。

小説現代 2002年12月号より転載


←ひとつ前のページに戻る