こぼれた遺骨

 運命の出会いというと大げさであるが、自分の人生に重要な関わりを持つ人との出会いはいかにもドラマティックとおもいきや、意外にさりげなく、記憶の中に烟(けむ)っていることが多い。

 笹沢左保氏と初めて出会ったのは三十数年前、私が東京・平河町の都市センターホテルに勤めていたころであった。当時、文藝春秋の新社屋が私がいたホテルの斜向かいに竣工して、作家が数多く見えるようになった。まず梶山季之氏が都市センターホテルを常宿とし、笹沢氏や阿川弘之氏、黒岩重吾氏、五味康祐氏などがホテルによく姿を見せた。

 初夏のある日、笹沢氏が突然ホテルの正面玄関から入って来て、私の前に立ち、百円コインでフロントカウンターをこつこつと叩いた。テレホンカードも携帯電話もない時代で、笹沢氏は私に十円コインとの両替を頼んだ。両替した笹沢氏は、フロント脇にある赤電話から言葉少ない電話をして、ホテルから出て行った。この間、私とは一言も口をきかなかった。これが笹沢氏との初めての出会いであった。後日、笹沢氏にこの話をすると、まったく記憶になかった。

 そのころ、私はホテルに所を得ず、転職を考えていた。もともと本が好きで、漠然と文芸畑への転身を考えていた私は、そのとき初めて出会った笹沢氏に強い刺激を受けた。

 折から、初夏の午後の陽射しがホテルの正面玄関から射し込んでいた。当時、笹沢氏は『招かれざる客』を引っさげて華々(はなばな)しくデビューして以来、年間平均十余冊の作品を発表し、毎月ほぼ全文芸誌に作品を掲載し、流行作家街道を独走していた。昭和四十七年には十七冊、平成二年には二十一冊の単行本を出版している。この間、『木枯し紋次郎』シリーズや、『宮本武蔵』、『悪魔』シリーズなどの主要作品を発表しているのであるから、その創作力は凄まじいものがあった。

 束の間、午後の客の途絶えた時間帯にフロントに立っていると、私は下半身から静かに腐っていくような気がした。そのときなみなみとした初夏の陽射しを背負って颯爽と現れたほぼ同世代の笹沢氏に、私は自分も作家になりたい、いや、なろうという、魂がおののくような衝動をおぼえた。それ以後、常連客の一人として接遇していた梶山季之氏も、特別の関心をもって見つめるようになった。

 笹沢氏にはなんの記憶も残していなかった出会いが、私にとっては人生の転機となったのである。その意味で運命の出会いであった。もしあのとき笹沢氏に出会っていなければ、私はいずれ作家になったとしても、かなり遅れたであろう。笹沢氏と出会う前に、すでに『招かれざる客』や『空白の起点』は読んでいたが、その出会い以後、笹沢作品を集中的に読んだ。

 後年、作家の末席に連なってから、山村正夫氏の紹介によって親しくなった。性格も主義・主張もまったく異なる笹沢氏であったが、なぜか心に通い合うものをおぼえて、山村氏と共に、水魚の交わりを結ぶようになった。

 一人の人生において、三百七十七冊、近刊予定を加えて三百八十冊もの質・量共に優れた作品を築き上げたのは、尋常の作家でないことは言うまでもない。この膨大な作品を紡ぎ出した笹沢氏の生涯は波瀾万丈であり、ヤクザとの決闘、瀕死の交通事故、人妻との心中未遂、病魔といくたびも死線を潜ってきた。多彩な笹沢作品の基調に無常観が漂っているのは、笹沢氏が常に死と直面してきたからである。

 想像力に富んだ作家は人生を弄(もてあそ)ぶことはできる。だが、笹沢氏のように死と直面し、常に死の影を凝視してきた作家は、人生と対決している。「あっしにはかかわりのないこと」という『木枯し紋次郎』の台詞(せりふ)のように冷たく突き放しながら、人生に関わっていく笹沢作品には、この世とあの世の境界線を行くような切実なおもいが行間に滲み、読者に迫る。

 なにかの機会に笹沢氏と一緒になったとき、「取材のために少しばかり体験××をして、その人生がわかるようであれば苦労はない」と笑ったことがあった。体験××とは笹沢さんから見れば居心地よい帰るところを持った人間の遊びにすぎなかったのであろう。

 病魔に冒される前から、笹沢さんは死と対決していた。作品の底流となっている虚無感は、疑似体験して得たものではなく、笹沢氏の人生の要素であった。要素を構成するものが酒と病気と女であった。笹沢氏は自分の心身を滅ぼす両刃(もろは)の剣を武器にして、三百八十冊を切り取った。数々の華やかな艶聞は作品に艶(あで)やかな艶(つや)をかけた。

 結局、両刃の剣によって七十一年の人生の幕を閉じたが、この三百八十冊は氏の生命をもって購(あがな)った作品と言えよう。その業績も偉大であるが、そこにいるだけで圧倒的な笹沢氏の存在感の大きさに、後に残された私は、ただ茫然と立ちすくむばかりである。

 ありし日の想い出と共に、当分埋められない笹沢氏の喪失は、確実に文芸の一つの時代が終わったことを示している。この喪失感こそ、笹沢氏が積み残した作品の無念であろう。

 十月十五日、亡くなる六日前、最後に病床に見舞ったとき、笹沢氏は一言、「恥ずかしい」と言った。それが私が笹沢氏から聞いた最期の言葉であった。四百冊達成を目前にして、命尽きるのが恥ずかしいという意味に私には聞こえた。いかにも笹沢氏らしい遺言であった。ただ一言の遺言に、三百八十冊を積み上げてもなお無念を残す笹沢氏の作家魂が凝縮している。

 以後容態が悪化して面会謝絶となった。せめてあと一度会っておきたかった。

 葬斎場で骨上げのとき、係員が笹沢氏の遺骨がとても多くて、用意した最も大きな骨壺に納めるのに苦労していた。骨壺から溢れそうな遺骨は、まさに笹沢さんが積み残した無念を象徴しているように見えた。大坪直行氏と一緒に遺骨の一片を箸で挟んで骨壺に納めたとき、笹沢さんの無念がひしひしと胸に伝わってくるように感じた。

 こぼれたる骨までも積め渡り鳥(どり)
(木枯し紋次郎に因んで)

 謹んで笹沢氏のご冥福を祈る。

問題小説 2002年12月号より転載

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