一期一会の作家

 一九九五年十月、笹沢左保氏の「三百五十冊達成記念パーティー」に佐賀の嬉野温泉に招ばれた。佐賀県知事・井本勇氏、祥伝社前社長・故伊賀弘三良氏、故山村正夫氏、夏樹静子氏、また担当編集者や笹沢氏と親しい人々が約五十名集まって、賑やかな宴となった。だが、そのとき三百五十冊とはちょっと半端な数だなとおもった。すでに病魔が進行していた笹沢さんは、そのとき四百冊達成は無理と予感して、三百五十冊を一応の区切り点として親しい人たちにそれとなく別れを告げたような気がした。だが、その後、元気になってもりもり書きつづけ、三百七十七冊、近刊予定を入れると三百八十冊まで書いたので、この分ならば四百冊達成も間近いと、内心ほっと胸を撫で下ろしていた。

 昨年七月、長年住み慣れた佐賀の住居を突然たたんで帰京していらしたとき、不吉な予感がした。笹沢さんは死を覚悟して帰って来たのではないのか。私は一瞬走った予感を振り捨てようとした。

 山村さんに紹介されてから笹沢さんとは三十年来の交友であるが、想い出は尽きるところがない。笹沢さんとは主義・主張も性格もまったく異なりながら、心の奥に共鳴するものがあった。何度も死線を潜り抜けて来た笹沢さんの作風は無常観に彩られていたが、私は『木枯らし紋次郎』は笹沢さんの反対表現であるとおもっている。「あっしには関わりのねえこって」と一見、冷たく突き放しながら、笹沢さんほどヒューマンで、人間を愛し、愛を尊び、友情の厚い人は少ない。

 笹沢さんの十余年ぶりの帰京のお祝いに、隅田川の遊覧船に乗って笹沢氏ご夫妻を囲んだ。夕方、浅草橋から発船して隅田川河口まで往復するコースである。両岸を東京のイルミネーションが彩り、水上をぼんぼりの満艦飾の大小遊覧船が行き交って、夢のような光景であった。同業作家は、私一人が参加した。編集者に囲まれると言葉の数が多くなる笹沢さんであったが、この夜はあまりしゃべらず、編集者の歓迎の言葉を終始にこにこと笑いながら聞いていた。

 華やかな川遊びであったが、このとき私は、笹沢さんと私たちが同じ船に乗りながら、生死の距離を開いていたような気がする。笹沢さんはあのとき一足早く、三途の川の渡り初めをしていたのではあるまいか。

 三十年に及ぶ交友であったが、笹沢さんとは一期一会の出会いであった。もはや作品でしか彼に会えないとおもうと、改めてその存在感の偉大さに立ちすくんでしまう。ただそこにいるだけでもいいから、生きていてもらいたい笹沢さんであるが、テレビに出演して、

「作家は書かなくなったときから存在しないのと同じだ。作家でも人間でもない。強いて言うなら、人間の脱け殻だ」

  というような要旨の発言をした。四百冊達成を目前にして生命を燃やし尽くした彼の書棚の約二十冊分の空白(スペース)には、無念の青い火が燃えているようにおもえる。せめて一冊、未完の作品を補完して差し上げたい。

小説宝石 2002年12月号より転載


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