積み残した作品への無念

 笹沢左保氏とは三十年来の盟友である。氏が佐賀に移り住んでから間もなく、電話があって、
「森村さん、佐賀へ年に一回来ないか」
 と、誘われた。それ以来、笹沢左保氏を選考委員長に、夏樹静子氏とともに佐賀文学賞の選考に参加して、年一回、佐賀へ行くようになった。のちに北方謙三氏が参加した。笹沢氏の感化を受けて佐賀のファンになった私は、選考会以外にも佐賀へ行く機会が増えてきた。

 ある夜、笹沢氏と佐賀で飲んでいたとき、
「これから祇園へ行こう」
 と、言いだした。私は佐賀にも祇園があるのかと思って聞いたら、京都の祇園へ行くという。夜もかなりいい時間になっている。だが笹沢氏は、
「これから空港まで車を飛ばして飛行機で行けば、祇園の夜に十分間に合う」
 と、大真面目に言う。私は驚いて、
「佐賀で十分ですよ」
 と、引き止めた。笹沢氏にはこんなエピソードがいっぱいある。半ば伝説化していたエピソードを私は笹沢氏にいちいち聞いて、おおむね事実であることを確かめた。

 私が笹沢氏に初めて会ったのは東京・平河町の都市センターホテルに勤めていた頃である。当時、笹沢氏は文壇の寵児(ちょうじ)で月産千枚を超え、折しも黄金期の各文芸誌の中核執筆者として独走していた。笹沢氏の作品の載っていない誌はないと言ってよいくらい、ほとんど全誌を制覇していた。『人喰い』や『空白の起点』を読んで強い衝撃を受けていた私は、同世代のその作者と初めて相見(あいまみ)えて、自分も小説を書きたいという魂が震えるような衝動を覚えた。この頃から私はホテルマンから文芸の方向に人生の軌道変更を考え始めたのである。笹沢氏とは後年、山村正夫氏の紹介で親しくなってから、性格やイデオロギーも全く異なっていながら胸の奥に共鳴するものを覚えた。

 笹沢氏は瀕死(ひんし)の交通事故がきっかけとなって小説を書き始めた。生死の境から掬(すく)い上げ書き上げた『招かれざる客』を踏まえて、一躍流行作家となった。笹沢氏が死線をくぐったのはその時だけではない。ヤクザとの決闘や多くの病いと共生して常に死の影と直面してきた。笹沢氏の作品が無常観に彩(いろど)られ、その底流に死の陰影(いんえい)を孕(はら)んでいるのはそのためである。作家の虚無のなかに積み上げるものは作品以外にはない。氏の生涯を彩る華やかな艶聞(えんぶん)は、無常観を基調にした作風に艶(あで)やかな艶(つや)を出した。だが、作品ですら満たせない空虚を埋(うず)めるものに酒があった。酒は文、病い、女とともに笹沢左保の人生の要素であった。

 笹沢左保は、作家以前の半生をどのようなコースを歩もうとも作家たるべく運命づけられた人間であった。享年七十一歳にして約三百八十冊の作品をもってその人生に終止符を打ったが、四百冊達成を目前にして燃え尽きた生涯の遺言(いごん)は積み残した作品の無念の一言に尽きるであろう。氏の無念は、もはや新しい笹沢作品を読むことのできない読者の無念でもある。死の床に最後に見舞ったとき、笹沢氏は、やつれてはいたが眼光は鋭く無念の色に塗られていた。

 積みてなお残る無念や赦免(しゃめん)花
 (木枯し紋次郎シリーズ『赦免花は散った』に因んで)

 ご冥福を祈る。

10/24産経新聞夕刊より転載