松原治氏追悼記念館-1

松原治氏追悼文

森村誠一

日本の書籍・出版界は巨星を失った。

松原治氏の業績はいまさら繰り返すまでもなく、皆さまよくご存じのことである。

世界に冠たる紀伊國屋書店を築き上げた松原氏は、九十三歳をもって現役から退いた。そのときのご様子から、まだ百歳以上まではお元気であろうとおもったが、本年の開幕と共に訃報を伝えられ、我が耳を疑った。

松原氏の人生は、大きく三区分されている。帝大、今日の東大法学部から、後に講談社社長に就任する野間省一氏などから声をかけられて入社した満州鉄道時代。

次に召集令状を受けて、ニ等兵からスタートして糧秣、物資の調達、最前線への補給を担当した。糧秣課長となって最前線に軍需物資を補給する役目は、常に命懸けの使命であった。輸送途上、ゲリラに襲撃されたり、搭乗機が撃墜されかけたり、地雷に触れたりして九死に一生を得たが、当時の松原氏は、常に交戦用と自決用の拳銃を二挺、携帯していたという。

日本の敗戦を迎えて、三百人の部下を率いて帰還業務に携わったが、自分の帰還日の前日、松原氏の有能に目をつけた中国の将校が、その帰還を阻止した。この機会を逃したら日本に帰れなくなると判断した松原氏は、咄嗟の機転で、その阻止を切り抜け帰国した。佐世保に着いた四月二十三日を、松原氏は「生還記念日」として毎年祝っていた。

戦場からめでたく生還。田辺茂一氏との出会いが、松原氏の戦後の運命を切り拓いた。戦場で発揮した松原氏の才能と勇気は、平和到来に合わせて、国の再建に大きく花を開いた。

時代を見抜く抜群の先見の明と、戦場で培った豪胆、かつ繊細な経営戦略は、日本一国のみならず、世界が戦場から街角に変わった時代性にジャストミートし、まずは取り組んだ洋書販売を梃子にして、日本の主要都市に紀伊國屋を進出・拡大していったのは周知の通りである。

常に時代の最先端を見据えて、IT管理による情報化戦略を、ITの申し子のような若者を尻目に展開した。

終戦後、書店経営者と転身して、あますところなく本領を発揮された松原氏が所信としていた言葉は、「人生には大きく三つの出会いがある。一、人、二、自然、そして三、本との出会いである」である。

この所信には、満鉄の舞台である満州、また死線をさまよった戦場との出会い、そして運命を決した田辺氏との出会いを経て本と出会い、天職を得た松原氏の人生を象徴している。

松原氏とは二十年を超えるおつき合いだが、特に十八年前、角川書店が社難ともいうべき困難と向かい合ったとき、角川書店創業者の角川源義氏と肝胆相照らす盟友であった松原氏が、紀伊國屋全店を挙げて角川書店の支援をされた。

そのとき以来、私は特に松原氏の知遇を得て、年、少なくとも二回以上、数回はお会いするようになった。歳は十八歳も開いていながら馬が合って、私ごとき若輩を親友として扱ってくださった。

紀伊國屋書店の屋台骨として、重い責任と使命を負いながら、悠揚として迫らざる姿勢を保ち、酒を酌み交わし、興至ると、決して忘れることのない甲高い、ふぉっ、ふぉっ、ふぉっ、という笑い声と共に、広瀬中佐と杉野兵曹長の「旅順港閉塞」の歌などを歌ったものである。あの歌声と笑い声が、いまでも私の耳に残っている。

松原氏には余生や老後というものはなかった。九十三歳の天寿を全うしながら、その生涯のすべてを走りつづけ、天職を天寿によって完走したのである。

今日、長寿の方は少なくないが、松原氏のように多彩な人生を織り上げて、紀伊國屋書店をグローバルな大書店に育て上げるまで、現役を走りつづけた人は極めて稀である。

書店を天職とした松原氏は、同時に書店を劇場として、演劇文化を活性化させた。本との出会いの副産物というよりは、松原氏が常に未知との遭遇を狙う狩人としての収穫であろう。

私は松原氏の人生を顧みるとき、永遠の眠りについたとはおもえない。この世での天寿を全うされた松原氏は、さらに別の世界に移動して、未知との出会いを求めているのではないかとおもう。つまり、四つ目の出会いを追う永遠の狩人として、別の世界へ移ったのである。

逝きてなお夢追う人や初日の出

ありし日の想い出もまた熱き歌

この世での縁を我が生涯の宝として、ひとまずのお別れの言葉とさせていただく。

※「新文化」二〇一二年(平成二十四年)一月十二日


写真撮影及び撮影設定:森村誠一
役職は撮影当時


角川書店創立50周年記念にて。


角川書店創立50周年記念にて。
左から紀伊國屋書店会長・松原治氏、角川ホールデイングス社長・角川歴彦氏、
紀伊國屋書店専務・田辺礼一氏、鳩山邦夫氏。


くだけた酒席でもないと、なかなかこのような顔ぶれは揃わない。
左端紀伊國屋書店社長・松原治氏、東急会長・三浦守氏、右端角川書店社長・角川歴彦氏。


角川春樹小説賞パーティー。
右・辻井喬氏、中央・紀伊國屋書店社長・松原治氏。

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