作家の条件

森村誠一

数年前、作家(小説家)志望の人口は五百万人と推定された。だれが、どのようにして推定したのかわからないが、かなりいいかげんな数である。だが作家予備軍が多いことは確かである。

日本の場合、日本語が読み書きできれば、だれでも自分の人生という小説は書ける。だが、小説が日記と異なるところは、読者の存在である。読者なき小説は、小説とは言えない。小説に限らず、すべての創作物は受取り手(レシピエント)がいて、初めて成立する。それも少数ではなく、ある程度のまとまった受取り手に支持されて成立する分野である。

人間の持つ大きな欲望の一つとして、表現欲がある。生存するための食欲、繁殖のための性欲と異なり、表現欲が満たされなくとも生存はできる。だが、一応生存のための条件が満たされると、人間は自分が社会において認められていることの証明を求めるようになる。自分が社会の確実な存在としての証明。その証明が表現欲や名誉欲や権力欲となる。社会における存在の証明であるから、社会、すなわち受取り手が認めてくれなければ意味がない。

また、創作物は作品の共有者が多ければ多いほど価値を増すという性質を持っている。その点、独占しなければ意味がない権力とは正反対の位置にある。特に、自らが法となって人民の自由を制限したり拘束できる政治権力とは両極点の位置にある。

作家志望の動機として、生き甲斐、名声、富、生活、社会的ステータス、趣味、時間潰し、余生の筆のすさび等があるが、結局は表現本能に収斂される。すべては表現本能から派生したものである。これを書かなければ生まれてきた意味がないというほどおもいつめて書いたものが作品として結晶し、読者に支持される。その副産物として名声や、けっこうな収入が得られれば、作家冥利、これに尽きると言えるであろう。どんな動機から書いても自由であるが、利益を目的とするビジネスと異なり、まず表現欲ありきが作家志望の主流と言えよう。

小説を書くための鉄則はない。だれがなにをどのように書こうと自由である。私が各社の間を、原稿を持ち歩いていたころ、ある社の編集長から、きみは小説の書き方を知らない。小説作法のA、B、Cから勉強し直せと言われて、反発をおぼえたことがあった。だが、後になって小説の鉄則はないものの、それをおぼえた方が有効である技術はあることを学んだ。小説の鉄則がないということは、鉄則がないという鉄則もないということになる。

ある商品を買って、不満や欠陥があれば、返品あるいは交換できるが、小説を読み終わって失望しても、本を返すわけにはいかない。仮に返本ができたとしても、読書によって失われた時間は取り返せない。読者が本を買う一応の目安は、作者の名前や、書評や、冠(受賞作品)である。無名の新人は分が悪い。無名の新人でも、出版社が大宣伝を繰り広げて有名にしてしまう場合もある。だが、この場合は新人でも無名とは言えない。

作品の質が中核にあることはもちろんであるが、名前、書評、冠、宣伝などが、作品の質に先行することも多い。出版社が特定の作家に照準を定めて、宣伝力でベストセラーをつくりだす方式を、欧米ではブロック・バスターと呼ぶそうである。宣伝に躍らされて、読んでがっかりという作品は、ブロック・バスターに多い。また、文壇総褒めの作品や、評論家の十年に一人の逸材とか、百年に一人の大器というレッテルも眉唾ものである。年月の風霜に耐えて評価の定まった古典にすら、虚名がある。

作品本位から新刊中心主義、売上げ至上主義に移行した今日では、書店に置かれる書物のライフサイクルが速くなっている。どんなに内容のよい本でも、売れる見込みのない本は書店の店頭に置かれることもなく、開梱されないまま、出版元に返送されることもあるという。どうせ売れる見込みがないのであるから、その方が手間が省けてよいというわけである。

本の生命が、内容から売上げ本位に移ると、虚名が多くなる。ベストセラーが必ずしも虚名ではないが、私自身、複数のベストセラーを経験して、書店と出版社に求められるものは作品の質ではなく、読者の数であることを学んだ。読者は文芸作品になにを求めるか。人生いかに生くべきかという重い命題から、娯楽(エンターテインメント)、時間潰しまで、読者の好みや、生活環境、精神の状態などによってさまざまである。

だが、一貫して求められるものは、面白さである。かつて文学なるものが、精神の自慰(マスターベーション)に陥り、社会から遊離した「私」の狭い経験に偏り、高踏読者(ハイブロー)のサロン的読み物に堕したとき、興趣豊かなエンターテインメント系の読み物が一般読者に支持されて脅威をおぼえ、自衛的に純を冠して他の文芸作品を不純・非純と見なしたのが純文学の語源であるという説もある。傲岸不遜な自称であるが、要するに、私小説で、テーマは家事(特に冠婚葬祭)、身辺些事、性(セックス)、飲食、病気であり、登場人物の職業は教師と作家が圧倒的に多く、あとは遊民と病人がつづいた。一般読者から遊離したのもやむを得ない。

だが、一口に面白さと言っても種類がある。文芸に限らず、すべての芸術作品は受取り手にある程度の素養を必要とする。その素養を前提としない面白さが通俗の面白さである。その代表的なものにポルノとギャンブルと闘争がある。この三つの面白さには、読者に素養を求めない。そして、だれにでもわかる安易な面白さを維持できる。週刊誌が企画に詰まると、〃三種の神器〃として、セックス、ギャンブル、闘いを取り上げるのはそのためである。

一般から遊離せず、また文芸と通俗の間に一線を画すものはなにか。それは作者の志であるとおもう。読者に迎合した、読者の背丈以下の作品は、通俗に堕する。読者の背丈以上、あるいは読者に対抗する作品は、読者との間に知的葛藤を生じて、読者の背丈や、知的面積を引き延ばす。作者の志と独りよがりを混同すると、読者から遊離してしまう。志は作者それぞれによって異なるが、志のある作品は風格があり、香りが高い。志なき作品は下品であり、臭気を放つ。

だが、志が重すぎるとエンターテインメント性を圧迫する。作者が志を大上段に振りかぶると、読者がしらけてしまうことがある。また作者が志と力んでも、独りよがりのこともある。志は謙虚でさりげなくなければならない。作者の志が必ずしも読者に受け入れられるとは限らない。その国や、作者が生きた時代層において理解されないこともある。外国や後代において評価されることもある。その作者が生きた国や時代において、志を評価されなかった作者は不遇である。

また、反体制的作家は、どんなに志が高くとも、あるいは多数の読者の支持を受けていても、体制上(おかみ)からは顕彰されない。作家はお上の御用となったとき、筆に制約を受ける。体制の提灯小説を書くことを潔しとしない作家は、反体制的とならざるを得ず、なにものの拘束も好まない作家は、本質的に反体制である。そのような作家にとっては、顕彰されないことが名誉なのである。権力の保護を受けることはあっても、権力におもねらないことが作家のあるべき姿である。

たとえば従軍しながら反戦小説を書いたり、政府から勲章をもらって、反政府的な小説を書くことができるであろうか。そのような場合、作者の志が作品に大きく影響するであろう。作家に求められる能力は、一、想像力、二、創造力(作品世界をつくる力)、三、表現力、四、構成力(物語をつくる力)、五、取材力、六、持久力、七、好奇心などである。

この能力のうち、一、二、三を備えていれば、一応純文学は書ける。だが、社会と密接な関わりを持った作品、あるいは時代性を反映した作品を書こうとするとき、取材力や調査力が求められる。また、大長編の執筆には持久力が必要となる。単に机の前に座っている力だけではなく、一つのテーマ、あるいはその作品に対するこだわりがなければ、長編を完成できない。

政治家や社長などは、現役から退いても元大統領、前議員、前社長と呼ばれるが、書かなくなった作家は元作家、前作家などとは言わない。書かなくなった作家はただの人ですらなく、歌を忘れたカナリア、卵を産まなくなった鶏以下で、つぶしにすらできない。たとえ作家と呼ばれたとしても、それは作品の余韻にすぎない。作家は職業ではなく、状態であるという説も、この辺の事情から発する。

作家にはゴールはない。おおかたの職種やライフパターンには一応のゴールがある。たとえば会社員ならば社長、軍人ならば大将、力士ならば横綱などは、一応のゴールと言ってよいであろう。だが、作家は一作ごとが、次の作品の督促となり、超えるべきバーとなる。質の高い作品を発表すれば、次作はこれを超えなければならない。自らによりハードな条件を課して、可能性の限界を推し進めていく。

作家は作品の卵巣を持っている。排卵期間は個人差はあっても、それぞれに一定している。休筆したからといって、その分、排卵期間が延びるわけではない。作家にとって最大の無念は、排卵期間中に体力が尽きて、作品を産み残し、積み残すことである。

故松本清張氏は四十一歳でデビューし、「スタートが遅すぎた。時間との競争だ」と言いながら、三作の執筆途中において没した。笹沢左保氏は四百冊達成を目指しながら、三百八十冊目が絶筆となった。笹沢左保氏の遺骨は多すぎて、特大の骨壺から溢れた。こぼれ落ちた遺骨が、氏の積み残した作品に対する無念を象徴しているように見えた。

最近相次いで物故した生島治郎氏、黒岩重吾氏の生き様(よう)には、まさに作家魂が横溢(おういつ)していた。ハードボイルドから『片翼の天使』に煮つまった生島氏、血反吐(ちへど)を吐いても書きつづけると言っていた黒岩氏。ゴールなきゴールに向かって人生を燃えつきた、没してもなお華やかな残光を噴き上げる文人の最期であった。

自分の作品が相当に評価されているとおもっている作家は少ない。すべてのアーティストは、自分の作品に対する社会的評価を不満におもっている。だが、一方では、もしかすると、自分はとんでもない勘ちがいをしているのではないのか、作家としての才能が枯渇したのではないかという不安を抱いている。自信と不安は作家たる者の宿命的な相剋である。

俳優や歌手やスポーツ選手などが、その芸や歌、技など、自分自身に直接属するもの(直接的属性)を持って、受取り手(観客)に直接アピールするのと異なって、作家は自分の持てるものすべてを投入した作品(間接的属性)をもって読者に働きかける。つまり、自分自身の直接的魅力ではなく、作品による間接的なアピールであるので、作者本人は脱け殻のようになっていることが多い。作者が読者に直接接すると、幻滅を与えることが多いのは、そのためである。

文は人なりとよく言われるが、実際には作者と作品の距離が開いていることが多い。たとえば凶悪無比な死刑囚が万人の心を打つ歌を詠むことも珍しくない。作品に作者の人間性や破片が投影していることはあっても、作品即作者ではない。畏友山村正夫氏は、「作家は十年見なければわからない」と言った。名言である。現役の作家であるためには、常に作品を生みつづけなければならない。膨大な作品を積み重ねようと、またどんな名作、傑作を発表しても、書くことをやめた瞬間から、本質的に作家ではなくなる。作品が残っていても、それは作家が残っていることではない。

文芸に携わる私ですら、多数の名前を知らない新人作家が増えている。どんな巨匠、大家、流行作家でも、新人のころは無名に等しい。だが、知らない作家の数がかつてないほどに増えつづけているのは、記憶される前に消えているからであろう。作品のライフサイクルが短くなったのと同様に、作家のライフサイクルも短くなっている。年間五百人近く誕生する作家の中で、生き残っていくのは三人ないし五人と言われているが、一時(いっとき)、洛陽の紙価を高めた作家が、突然消えてしまうことも珍しくない。

今日の作家は、単に机の前に座っている持久力だけではなく、年月の風化に耐える継続力が求められる。もちろん継続力に持久力が含まれるが、持久力は継続力そのものではない。その作者の感性、時代性、社会的なニーズ、時流への順応性などの総合力が継続力となる。どんな作家も、彼らが生きた時代の影響を避けることはできない。一見、時代の影響をまったく受けていないような作家も、実は受けている。その時代でなければ現われないような作家、まさに時代と共生したような作家も少なくない。時代が求めたような作家は幸福であり、生まれるのが早すぎたり遅すぎたりした作家は不幸と言うべきであろう。

それらのハンディキャップを乗り越えて、それぞれの時代に生き残った作家は、時代と同調しなかった不遇をかこちながらも、その時代性を強く投影している。継続力の原動力となるものが志であるが、その継続力は彼らが実際に生きた時代をも超える(死後評価される作家)ことがある。

作家の武器は文章であり、文体である。言葉を結び合わせて文章を紡ぐ。言葉には、一、知識・情報の伝達、二、情緒の伝達、三、人間関係の潤滑油、挨拶、激励、弔意など。四、娯楽、五、欺罔(だまし)、六、暴力と、大別して以上六つの機能がある。これらの機能を駆使して小説は書かれるが、文芸は第二の機能を最大限に発揮する分野である。文体は作者の文章のスタイルであり、個性である。作家独特の誤字・誤用も文体の一部になる。作者名を隠しても、作者が当てられるような文章が文体である。

だが、辞書にない作者独自の文体も、編集部において辞書の鋳型にはめた文章に訂正されることが多い。文法的に正確にはなっても、作者の個性が失われた面白みのない標準文に整形されてしまう。小説の文章に要求されることは、文法的な正確さよりは、作者の個性であり、文体が紡ぎ出す情緒、共感である。

日本は憲法によって表現の自由を保障されているが、現実に制約を受けるものが三つある。一は天皇および天皇制の批判、二、戦時中における日本軍の戦争犯罪の告発、三、差別問題である。この三つをあえて書くときは、作者は無難な小説とは異なる覚悟をしなければならない。これらを書いたからといって、政府から弾圧を受けることはないが、異なる意見を持つ組織や団体からの抵抗を覚悟しなければならない。

一個人の作者に対して組織や団体は、圧倒的な力を持っており、その脅威の前に憲法の保障も空文に等しくなる。特に第三の差別問題は、被差別者が、ある言葉に対して差別とおもえば差別語となり、使えなくなってしまう。たとえば按摩は漢方医学の按摩法より発しているが、今日では現実に使えない。使える言葉すら、被差別者を置き去りにしてマスコミが自粛してしまうので、使いにくくなっていく。マスコミ自らの言葉狩りによって、言葉がますます圧迫されてくる。

作家が言葉を失うことは、武器なき軍と同じである。文字と音声では聞く者の印象が異なってくる。被差別者に言葉を選ぶ権利があたえられなかったことがいわれなき差別を産んだという歴史の反動が過剰な言葉狩りとなって、日本の文芸をずいぶんつまらなくしてしまった。文化の原点は、まず言葉であり、人間の間にコミュニケーションが生じて社会が形成されてきた。言葉狩りは文芸の分野だけではなく、文化全般の自殺につながる。言語を守ることは、作家の重大な責任である。たとえ使命を終わった死語となっても、その言葉の存在は文化の歴史であり、人類の共有遺産である。

作者独自の文体を鋳造しても、それは言葉を生かすことであって、殺すことではない。言葉を殺すことに、作家は全力を挙げて抵抗しなければならない。かつて政治権力によって表現の自由が圧殺され、多くの日本語を生きながら葬った歴史の教訓を、少なくとも表現に携わる者は忘れてはならない。

文藝ポスト 2003 夏号 Vol.21