うぐいす殺人事件

〈うぐいす殺人事件/空洞の怨恨/溯死水系/凶原虫/致死鳥/飼い主のない孤独〉

【著者解説 2002/10/4】

ある夜、かなり遅い時間帯に、私は常時利用している私鉄の下り電車に乗った。途中、停車するつど乗客は減って、車内は空いてきた。なにげなく向かい合った座席に目を向けた私は、はっとした。そこに一人の若い女性が座っていた。見知らぬ女性であったが、どこかで出会ったような既視感(デジャビュ)があった。色白、丸顔の、いかにもほんわかと柔らかそうな雰囲気と体つきの人であった。私がそのとき執筆中であった作品のヒロインのイメージそのままの人が目の前にいた。

私は束の間、茫然として、その人に見とれていたが、ほとんど無意識にその人の隣に席を移して、「以前、どこかでお会いしたことはありませんか」
と声をかけてしまった。途端に彼女の表情が硬直して、マイルドな雰囲気が叩けば割れるように硬くなった。がらがらの車内で、隣に席を移して来た未知のおじさんから突然声をかけられて、びっくりしたらしい。私は自分の軽挙を後悔したが、遅かった。
「どうやら人ちがいだったようです」
と私は詫びて、そそくさと別の車両へ移った。全身に冷や汗が滲んでいた。そのときの体験が『うぐいす殺人事件』に実ったのであるから、冷や汗の産物と言えよう。作家の経験には無駄がない実例の一つである。

集英社文庫
1995.2

*は新書サイズ、()内は別題名、複数作品収録の場合ならびに長編選集は〈 〉に内容を示した。◇は再編集本など。


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