壁の目

【著者解説 2002/8/30】

25~26歳のころ、ホテルマン時代、私が寄宿していた練馬区内のアパートの1室の壁に、小さな穴があいていた。その穴から隣室の一部が見えた。隣室には 若い様子(容姿ではない)の美い女性が入居していたが、彼女とは一言も言葉を交わしたことはなかった。穴から覗く隣室も片隅であって、生活の主たるスペー スは死角になっている。隣人は1年ほどそこに住んでいたが、どこかに引っ越して行った。引っ越した後、もはや彼女はいないのだなと寂しくおもいながら、なにげなく穴を覗くと、隣室が見えない。よく見ると、そこには紙片がつめ込まれていた。つまみ出してみると、メモ用紙に「お世話になりました。お元気で。さようなら」と書かれてあった。私はおもわず赤面した。このときの体験がこの作品に実った。

彼女はいま、どこで、どんな生活をしているであろうか。大都会での出会いは、宇宙空間での別の惑星から来た宇宙船の遭遇のようである。私は壁の穴から別の宇宙を覗いていたのかもしれない。

祥伝社
1996.7
*祥伝社
1999.6
祥伝社文庫
2001.8
集英社文庫
2004.9
ワンツーマガジン社
2008.4

*は新書サイズ、()内は別題名、複数作品収録の場合ならびに長編選集は〈 〉に内容を示した。◇は再編集本など。


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