タクシー

ある夜、東京のある街角からふと乗ったタクシー運転手から、よく霊が乗るという話を聞いた。「深夜、墓地や交通事故のあった地点などを通過したとき、後部 座席に冷気が動いたような気配がして、全身が金縛りにあったようになった。しばらく行くとまた冷気が動いて、身体の自由を回復した。この間、背後を振り向 きたくても身動きできなかった。こんなとき、たいてい雨も降っていないのに後部座席が濡れていた」と話していた。私は生きている人間を乗せるとばかりおもっていたタクシーに、幽霊も乗ることを初めて知った。

タクシーは都会の人間の海を行く小舟である。乗客は指名以外は一期一会(一回性)である。だが、一回性の客であっても、人生の破片(かけら)を残して行く。日本ではタクシーがなくとも、それにかわるべき大量交通機関が四通八達している。タクシーは交通機関の補助(サプリメント)と言ってもよい。それだけにタクシー運転手には大げさな使命感はない。客のリクエストのままに、どこへ連れられて行くかわからない。これも一回性の極楽とんぼである。

一回性の人生の破片には、一回性であるがゆえのドラマがあるであろう。タクシーが運ぶ者は乗客である。乗客が乗車中、死亡した場合はどうなるか。タクシー は死体を運べない。だが、乗客は車中で、自分の死後、遺体を必ず目的地に運ぶようにと遺言して死んだ。生者と死者の境界がタクシー上に発生して、開かれた人生ドラマの幕。どこの町へ行っても見かけるタクシーであるが、自分の人生の境界が、そのタクシー上で発生するとおもっている人はいない。タクシーという乗物の乗客には死者もなり得る。

おもえば人間の海を行く小舟は、生者と死者の境界を走っているのかもしれない。メーターに表示される料金は、乗客の人生の破片の料金でもある。その最後の破片を残した乗客とタクシーの行き先をミステリーに構成した。

角川書店
2002.11
*角川書店
2004.12
角川文庫
2006.10

*は新書サイズ、()内は別題名、複数作品収録の場合ならびに長編選集は〈 〉に内容を示した。◇は再編集本など。


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