怨稿

森村誠一

 昭和四十四年江戸川乱歩賞受賞前、私はホテルに勤めるかたわら、所を得ぬ不満を細々と原稿を書くことによって癒していた。書いても書いてもまったく売れる当てのない原稿である。休日や夜勤明けの時間を使って日の目を見る保証のない原稿を書きためている。当時、私は都心の大きなホテルに勤めていて、ホテルマンとしての自分に見切りをつけていた。すぐ近くに文藝春秋の社屋が建設されて、私の勤めるホテルにも著名作家が宿泊に来た。物心つくころより読書が好きだった私は、ホテルマンに幻滅して門前の小僧とやらでものを書く分野に憧れるようになっていた。

 ホテルマンの職性は客に最高の満足をあたえることである。ホテルマンの産み出すものはサービスであり、生産されると同時に消費されてしまう。つまり私のつくりだしたものは形として残らない。大学を卒業して最初の職業として就いたホテル業に十年近く従事している間、私は形のあるものをつくりたいと願うようになった。またホテル業は従業員のチームワークの総和が客の満足をつくりだし、その満足のどの部分に自分が関与しているか証明することができない。客の黒衣として自分の存在は常に隠していなければならない。自分の行ったことや、つくりだしたものに対して自己主張ができないのである。むしろ滅私の精神がなければできる仕事ではない。自己顕示欲の旺盛な私は、その職性に次第に不満をおぼえてきていた。

 世の中の大半の仕事というものは、自己主張ができない。署名入りの仕事などというものはごくわずかしかない。そういう無数のだれがしたかわからない仕事の総合によって世の中は成立しているのである。だが私は自分のしたこと、自分のつくったものに対して署名を入れたいと願うようになった。客の黒衣として形に残らないサービスをしているだけに厭(あ)きて、自分の作品に署名を入れたくなったのである。署名つきの仕事、ものを書きたいという願望が次第に自分の内部に膨れ上がってきた。自分の書いたものは、たとえどんな駄作であっても自分以外の人間にはつくれないものである。そして自分が手許に留めている限りは、それは形として残る。巨大ホテルの黒衣から作家へと私は人生コースの方向転換を図ろうとしていた。

 だが、無名の人間の原稿などだれも読んでくれようとはしない。原稿を書くということは、日記を書くこととはちがう。だれかに読まれたいと願い、できるだけ多数の読者に読まれようとして書くものが原稿である。他人に読まれるためには身内や狭いコミュニティだけで通用する言語ではなく、自分とまったく異なる環境、職業、処世、性別、年齢層、人生コースなどを生きる人々にも理解できる言語を用いて、そしてある種の共感をあたえなければならない。自分の書いた原稿を読んでもらうということは、読者の時間を奪うことである。また原稿を商品として提供する場合、読者にそれ相応の出費を要求する。時間と出費と読む労力に相応する共感を、先に例示した自分とは異なる人々にあたえるということは至難の業である。だがそれをあたえない限り、原稿は売れない。

 私は企業の歯車、いや、歯車ならばなくてはならない存在であるが、一本や二本欠けてもどうということはない会社のネジ人間の怨念を原稿に叩きつけるようにして書いた。おれの書いたものが日の目を見ぬはずはない。自分の原稿がわからぬ読者は馬鹿だという若気の至りの絶大な自信過剰と、もしかすると自分は途方もない勘ちがいをしているのではないか、ものを書くなどという能力からは正反対の位置にいる者が、見当ちがいの自惚れから愚にもつかない駄文をせっせと書き連ねているだけではないか。自信と不安が同居した中で、私はやはり書きつづけていた。原稿用紙がデスクにうずたかく積まれ、古い原稿は黄色く変色していた。そんなとき私は交通事故か急病で急死したら、変色した原稿用紙から夜間青白い光が発するのではないかとおもった。傑作か、トイレットペーパーにも使えぬ反故(ほご)紙かわからぬながらも、その原稿に怨念がこもっていることは確かであった。

 およそすべての小説というものは、既存の作品の否定から始まる。書いても書いても売れない小説をうずたかく積み重ねている間、自分の心の中にもそれに相当する怨念と屈辱が積まれていく。世間に氾濫している夥(おびただ)しい書物、社会の害虫としか受け取れないようなくだらないベストセラーのかたわらで、我が心血をインクとして書いたような原稿がなぜただの一枚も売れないのか。ベストセラーと我が原稿を対比する都度、胸に積まれる怨念はうずたかくなった。

 だが、職業作家となってから、必ずしもよい作品が売れるとは限らぬことを知った。読者の支持というものは当てにならず、無責任である。彼らは必ずしもよい作品(より多くの共感を得る)だから買うわけではない。宣伝、ファッション、社会現象等に釣られて買う場合が多い。読者必ずしも愛読者とは限らず、作品に共感して本を買ってくれたわけではない。そういうことが職業作家になるまでわからなかった。どうしてあんなくだらない作品(自分の印象)が売れるのか理解に苦しんだ。いずれは我が作品をもって洛陽の紙価を高めてやるという壮大な野心を秘めてせっせと原稿を書きためていたが、デスクの上にいたずらに積まれていく原稿の量に焦りばかりが募っていた。

 日記ではなく読者に読まれることを意識して書く原稿が、いつ活字化されるのか、まったく保証のないまま書きつづけることは、精神の自慰にすぎなかった。だが自慰であっても、書かざるを得なかった。書かざるを得ないように自分の精神が追いつめられていた。書きたいから書くのではなく、書く以外になにもすることがないので書いていた。当時の私にとっては書くことだけが仕事であり、職業としてのホテル業はなにもしていないのと同じであった。職業としてホテル業には完全に興味を喪失し、自慰であっても書くことは救いになった。

 だが当時の鬱屈(うっくつ)を心に蓄積しなかったならば、私は職業作家になれなかったであろう。アマチュア作家の場合は締め切りもなければ作品に伴う責任もない。あっても、小さい。また自分の内部に醗酵した最高のクリームを作品化していればよい。だがプロは内部に醗酵するものがなにもなくとも書かなければいけない。そして書いたものが常に水準を維持しなければならない。書くものがなにもなくとも水準作を書きつづけなければならないのがプロである。傲岸不遜に聞こえるかもしれないが、最も都合のよい時期に最も良質の作品を発表するというのはプロではない。プロは常に「いつまで何枚」という条件を課せられて書かなければならない。

 作家は自分の心の内にどんなに素晴らしい作品世界を抱えていても、それを表現しない限りなんの値打ちもない。そして表現したものが読者に読まれて共感を得たとき、初めてそれが作品たりうるのである。読者の共感を得るためには共感の素地がなければならない。その素地をつくるものが長い間日の目も見ずに埋もれていた原稿に降り積もった埃であり原稿にこめられた怨念の深さであろう。いつの日か我がおもい読者に届けとそのような日が来るのか来ないのか、あるいはまったく来ないのかもしれぬ虚しさに耐えながらも書きつづけていくエネルギーが、その原稿が読者に架橋されたとき、共感をつくりだす素地となるのである。

 若くして権威ある文学賞を受賞し、一躍文壇の寵児となったような幸運な作家もいる。そのような幸運も読者と作家をつなぐ共感の素地の一種ではある。共感の素地は作品そのものだけだからではなく、宣伝や流行、映画、テレビ、演劇等によって他為的に培われる場合もある。そのような場合、共感の素地は作者の名前となる。作者の名前がポピュラーなのでなんとなく買うといった現象である。それも共感の素地の一種にはちがいない。そのような素地の上で本当の共感が得られる場合もあれば失望することもある。

 作品そのものから発する共感の素地と、作品以外からの要素からつくられた共感の素地とでは明確なちがいがある。前者は読者が自分の人生に徴して作品を選ぶ動機とするのに対して、後者は広告や流行に乗せられてつくりあげられたものである。最初から日の光を当てられている原稿、あるいは当てられることを約束されている原稿には埃も積もらず怨念も少ない。だが前者は後者のポピュラリティに及ぶべくもない。どんなに不遇の怨念のこもった原稿であっても、読者がその存在を知らなければ、読む術はないのである。プロ作家の原稿は最初から活字となることが約束されている。原稿に埃の積もる暇もなければ、原稿がいつ日の目を見られるかという不安もない。埃も不安もない原稿によって読者の共感をもぎ取るのはプロ以前の怨念の埋み火が読者の共感の素地となってくれている。これにプロ作家としての名前(商品名)が相加する。

 私はいまでも活字になる当てのまったくなかった変色した原稿、埃が降り積もった原稿を大切に保存している。初心忘るべからず。その初心を忘れたとき私は作家ではなくなる。試みに読者との間になんの共感も素地もない者が「私の作品を読んでください」と書いた看板をぶら下げて大都会の雑踏の中で何日立ちつづけようと、よほど気紛れな人でもいない限りその原稿を読んでくれる人は一人もいないだろう。作家になるということは、よい作品を書くこと以前に読者の共感をもぎ取るための素地をつくる過程といってもよい。その素地が厚く深ければ深いほど作家として長つづきするであろう。

 我が作品世界を理解してくれる少数の読者に囲まれていればよいという作家もいるであろう。だが私は作家の看板を掲げた以上、自分の作品世界にできるだけ多くの読者を引っ張り込みたいという野心を持っている。できれば世界のすべての人間を我が作品世界の中に取り込みたい。それは作家の本能のようなものである。その本能のために原稿用紙の白いマス目を一つ一つ埋めている。

講談社『夢とロマンの共和国より

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