ミステリーの書き方


 ミステリーを書こうと志す者は、おおかたミステリーが好きで、内外のミステリーを読み漁り、自分もミステリーを書いてみたいとおもい立った者である。つまり、かつての読者が作者になったというケースが多い。他の文芸ジャンルに比べて、読者から作者に転向した人が圧倒的に多い。その点、俳句に似ているジャンルである。それだけにミステリーの作者には、他の文芸ジャンルとは異なった心構えが求められる。

 ミステリーも、特に本格推理には読者が参加する。読者の参加を拒否する本格推理はあり得ない。読者に、犯人、または真相に合理的に導くすべての資料が提示されなければならない。これを隠して書かれたミステリーはアンフェアである。

 第二に、読者に謎を提示して挑戦する。作者と読者の知恵比べとなり、謎の浅いミステリーは読者からばかにされる。たとえば密室に抜け穴があったとか、犯人が双子の片割れや、事件を追うべき探偵や警察官であったとか、アリバイの基礎となるべき死亡推定時間に解剖医のミスがあったとか、探偵が街を歩いていたら犯人を示す重大なキイを偶然発見したというふうなミステリーは、ミステリー以前であり、読者から軽蔑される。

 ミステリーの読者には直感的に犯人を当てようとする悪い癖がある。ミステリーの読者は他の文芸ジャンルと異なって、極めて挑戦的であり、意地が悪い。古今東西のミステリーに通じた鬼の読者が犇(ひしめ)いている。ミステリーを志すからには、このような海千山千の読者と渡り合う覚悟が必要である。

 第三に、他の文芸ジャンル、特に歴史小説や、純文学と称する私小説などは、同じテーマを異なる史観や視点から、何度書こうと許容されるが、ミステリーでは同じトリックや趣向は忌避される。オリジナリティが極めて尊重されるジャンルであって、どんなに素晴らしい作品世界を構築しても、先行作品に同じトリックや趣向があると減点されてしまう。特に新人賞応募作品には、先行作品の有無は当落に大いに影響する。

 拙作を例に挙げるのは、同業作品を例とするよりも難しいが、編集部の注文なのでやむを得ない。

■推理か小説か

 ミステリーは人工の美学と呼ばれるように、人工性が尊重される。たとえば難攻不落の密室(拙作『高層の死角』『密閉山脈』)の壁を、苦心惨憺して乗り越えて人を殺したり、曲芸まがいの乗り物の乗り換えや乗り継ぎをして、一分一秒のアリバイ工作に憂き身をやつしたり(拙作『虚構の空路』『新幹線殺人事件』)する現実の犯人はいない。

 文芸の永遠のテーマは、人間と人生を描くことにあるとされている。そのことに異議はない。だが、ミステリーは犯人を隠して書くという宿命があるために、犯人の人間性や人生を描きにくい。最後の絵解きにおいて、わずかに〃説明〃する程度である。この

 宿命(ネック)を克服するために発明されたのが、犯人側から描く倒叙ミステリーである。だが、いずれにしても、真相解明の時点において説明しなければならない。文芸の文章では、説明は忌避される。

 文章の二大機能に、知識・情報の伝達と情緒の創造がある。文芸の本領は、言葉を結び合わせて、情緒を紡ぎ出すことである。説明文の具体的な見本としては、薬の効能書きや、テレビ、ビデオ、パソコン等のマニュアルがある。こんなものを読んでも、読者はなんの感動も共鳴もおぼえない。説明文に求められるものは客観性、正確性、そしてわかりやすさである。これに対して文芸においては、客観性や正確性よりは、まず情緒が正面に押し出される。

 ミステリーにおいては合理性が尊重されるので、どうしても説明が多くならざるを得ない。密室やアリバイ、その他のトリック、犯罪環境などの絵解きが不正確であれば、ミステリーの合理性が損なわれ、アンフェアとなる。この矛盾をどのように克服すべきか。ミステリー作家の腕のふるいどころである。

 説明文も情緒的な文章の間にはさみ込むと、より一層効果を引き上げることがある。拙作の一例を挙げれば、『新幹線殺人事件』において、捜査報告書を結末に配した。人工の美学こそミステリーの栄光である。説明を忘れることはない。必ずしも感動を本義としない、一見、無味乾燥な説明文でも、構成の工夫によって充分読者の共鳴を引き出せるのである。

■本格か変格か

 本格推理小説はミステリーの宗家と言えよう。本格は別名パズラーと言われるように、冒頭において謎が提示され(おおむね犯人はだれか)、読者がこの謎解きに参加して、すべての読者が納得するような合理的な解決をするという小説形式である。謎は難解で、不可解であるほどよい。解決不可能とおもわれるような複雑怪奇な謎の網目をくぐって、物語は二転三転、名探偵の登場によって快刀乱麻を断つごとく、爽快に解決するというのが古典的手法であり、いまもってその形式はあまり変わっていない。

 ミステリーの範囲が広がり、サスペンス、ハードボイルド、冒険、犯罪小説、SF、ホラーなども広義のミステリーに含まれるようになると、古典的な謎解き小説が本格と呼ばれるようになった。

 本格以外が変格ということであろうが、最も人工性が濃いのが本格であることはまちがいない。他の文芸ジャンルやサスペンス作品で、登場人物が勝手に動き出すというような現象は、本格では好ましくない。まず設計図を綿密に引き、登場人物は設計図の枠組の中でのみ忠実な行動を求められる。先に設計があり、次に人間がくるのが本格の宿命である。

 同時に、この宿命は人間を操り人形と化す、あるいはまったく人間不在の作品となる危険性を孕(はら)んでいる。主役は謎であり、人間は謎を構成するための脇役、またその謎を解くための道具とされる。この弊を救済するために発明されたのが倒叙ミステリーであり、社会派ミステリーである。

 だが、ミステリーの中心が犯罪の動機や社会性に移行すると、肝心の謎が薄められてしまう。どんなに謎が深くとも、航空機とインターネットによって、人間の行動がグローバルになったいま、明哲、神のような名探偵と、山奥の閉鎖された村や孤島が舞台とあっては、現実から著しく遊離してしまう。

 犯罪の広域化に伴い、一人の名探偵では犯人を追いきれなくなってしまう。また携帯電話が普及した今日、ミステリー環境を設定する重大な要件の一つである連絡不可能の壁は、いとも簡単に乗り越えられてしまう。また、豊富な情報網は一人の人間を所在不明にすることも難しくなった。文明の利器は山間離島も大都会も大差なくしてしまった。

 今日では名探偵の独壇場である本格の舞台は、文明の利器や情報網という、以前にはなかったバリアをクリアしなければならない。現代社会を踏まえて合理性を尊重するミステリーを書くとき、最先端のハイテクの介入を無視できなくなっている。これを無視したミステリーは捕物帳になってしまう。

■犯罪の動機

 ミステリーにおいて、人間をより深く描くために、松本清張が創唱した動機の重視は、戦後の時代潮流を反映して、物質的貧困に置かれた。これが高度成長に伴う繁栄により、日本人の生活水準が向上した今日、動機は精神の貧困や奇形に置かれるようになった。人間の精神に深く入り込んでいくミステリーは、本格の人工性から遊離していかざるを得ない。本格には常に遊びの感覚がつきまとうが、人間の精神の暗黒を描くミステリーに遊びはなく、息づまるような現実との密着感、あるいは一体感がある。

 かつて、松本清張が「お化け屋敷の掛け小屋」と呼んだ、精神のレジャーランドに入ったかのように現実とは別のこととして楽しめた本格ミステリーが、ひょっとすると我が身にも起こり得るかもしれないという、等身大の世界として迫ってくる。
前者が遊び感覚のメルヘン的面白さであれば、後者はリアリティの持つ臨場感や恐怖である。いずれもミステリーであり、同じ物差しで優劣を比べることはできない。読者の好みによって評価が分かれるだけである。

 ミステリーを書こうとするとき、まず本格か、本格以外か。また本格にしても、犯人・フーダニット、ハウダニット、トリック・動機・ホワイ等のどれに照準を定めて書くかによって書き方が変わってくる。

■ミステリーの要素

 ミステリーにはさまざまな書きようがあり、作家それぞれに切り口が異なるが、最大公約数的な要素とも言うべきものがある。

一、ショッキングな発端

 推理作家は書き始めに最も苦心する。第一ステージで読者を作品世界に引き込むために、魅力的な導入部が求められる。私小説のように「私」について長々と書き始めるわけにはいかない。

 いまに面白くなりそうだという予感を読者に抱かせながら、長々と読ませて、一向に面白くならないミステリーもあるが、長々と読ませるだけで、一応の技術である。

 開巻措(お)くあたわずというようなインパクトのある導入が望ましい。冒頭に殺人事件や、不可解な現象や、いきなり結末から書き始めたりする手法が多用されるのは、読者をキャッチするためである。

二、トリック

 トリックは本格推理の核(コア)である。優れたトリックによって欺かれる快感は、ミステリーの醍醐味である。物理的なトリックが出尽くした今日、心理的なトリックにその大勢が移行している。だが、今後、ハイテク最先端を利用した機械的なトリックが出てくるであろう。

 本格の場合、トリックが先行して、人間や事件によって肉付けをするという作法が多い。人間が不在になったり、操り人形になったりする所以(ゆえん)である。だが、トリックには文芸の使命とされる人間を犠牲にするだけの魅力があるのである。本格ミステリーにおけるオリジナリティは、特にトリックにおいて要求される。先行作品に用いられたトリックを再使用するときは、よほどバリエーションの工夫を凝らさなければならない。バリエーションですら、オリジナリティはかなり減殺される。いやしくも本格を志す者は、古今東西の有名トリックに通暁する必要がある。

 ただし、トリックは読んだ後、メモに書き留めておかないと忘れてしまう。名作や、心に残ったトリックはメモしておくべきである。私は自分のメモ以外に、江戸川乱歩『続・幻影城』におさめられている内外の「類別トリック集成」や「探偵小説に描かれた異様な犯罪動機」を読まれることを勧める。

 拙作では、まずトリックが生まれて、人物を肉付けした作品は『高層の死角』『密閉山脈』『新幹線殺人事件』『黒魔術の女』『空洞星雲』『日本アルプス殺人事件』などがある。

密室

 密室はトリックの粋である。出入不可能な厚い壁に囲まれた密室から煙のように消え失せた犯人は、読者の不可解興味を盛り上げる。密室の機械的トリックは出尽くしたと言われ、これに次いで心理的トリックが盛んになったが、近年に至り、島田荘司氏、綾辻行人氏、有栖川有栖氏など、新本格話の作家によって大仕掛けな機械トリックが次々に発明されるようになった。

 拙作『高層の死角』は心理と機械を配合した密室トリックである。『超高層ホテル殺人事件』『黒魔術の女』『凶水系』『日本アルプス殺人事件』『終着駅』は機械的トリックである。心理的トリックでは『密閉山脈』『密閉城下』『致死海流』が代表である。

 前段で触れたように、密室のタブーは抜け穴であるが、拙作の短編『盗まれた密室』において抜け穴を使用している。だが、この作品の主眼は密室にはなく、密室を囮にして読者を誤導(ミスディレクト)することにある。作者の真の狙いは、密室そのものが盗まれ、完全犯罪が崩壊するところにある。抜け穴も読者が納得のいくように使えば、それは抜け穴ではなく、心理の盲点となる。抜け穴ではなく、難攻不落の密室そのものを囮に使った傑作に、東野圭吾氏の『放課後』がある。

アリバイ

 アリバイは密室に並ぶトリックの双璧である。犯人は捜査線上に浮上しているが、犯行現場に立てないという証明がある。共犯者を使うわけでもなく、犯人は現場に立たず、いかにして殺人を遂行したか。この謎に不可能興味をかき立てられる。

 トラベルミステリーでは、おおむね時刻表の盲点や、乗り換えや〃三角跳び〃による心理の錯覚によって、アリバイを構築する。何日もかけて少しずつ時間を貯蓄してアリバイを築く松本清張の短編『留守宅の事件』は秀作である。時刻表の盲点だけでは面白みが少なく、アリバイのスケールが小さくなる。犯人と現場の間にできるだけ距離があり、鉄壁の時間の壁があることが望ましい。

 たとえば東京で事件が発生し、犯行時間帯、容疑者はニューヨーク、パリ、あるいは絶海の孤島にいたというような設定である。事件発生時、容疑者が隣りの家にいたというような設定では小さい。仕掛けを大きくするために、電話、カメラ、その他各種文明の利器と組み合わせる。

 拙作では『虚構の空路』(事件発生時、犯人は海外にいる)、『新幹線殺人事件』(事件発生時、犯人は新幹線の車内にいる)、『新・新幹線殺人事件』(先行列車の乗客が殺害され、犯人は絶対に追いつけない後続列車に乗っている)、『日本アルプス殺人事件』(川崎市で被害者が殺害された時間帯、犯人は日本アルプス山上にいた)等がある。

 アリバイ崩しの難しさは、容疑者のアリバイを崩したことが、即有罪の証拠にならないことである。アリバイがないということは、犯行時、どこにいたかわからないということであって、犯行現場にいたことにはならない。これをどのように犯行に結びつけるか、アリバイトリックの難しいところである。

 この点、密室の壁が崩れると同時に、犯人が逮捕される密室トリックよりも、仕掛けに工夫を要する。本格ミステリー作家たる者、一度は密室やアリバイに挑み、あるいは挑もうとするのも、この抜群の不可能興味にある。

三、プロット

 物語性はミステリーの生命である。どんなにトリックが優れていても、プロットがつまらなくては、読者はついてこない。トリック同様、プロットにもオリジナリティが求められるが、バリエーションはトリックほど厳密ではない。優れたバリエーションであれば、先行作品があっても、別のオリジナリティと見なされる。バリエーションとリメイクはちがう。俳優の演技で見せる映画や演劇には、リメイクは許されるが、小説の場合、リメイクは少ない。せいぜい別の分野からのノベライゼーションである。

 私の場合、プロットは劇的な体験や、波瀾万丈の人生などよりも、平凡な日常体験や、ありふれた生きようから作品のヒントを得ることが多い。日常性における非日常性を面白いとおもう。たとえば街角の主婦の立ち話や、ゴミ集積場におけるゴミの出し方の個性や、タクシーの運転手とのなにげない会話などから、作品のヒントを得ることが多い。

 つまり、作品の劇的な要素と構想のヒントは直接の関わりを持っていない。作者の中で、平凡な題材から劇的に化学変化するのである。化学変化させる触媒が、作者の感性や、経験や、アンテナということになるのであろう。常にアンテナを張りめぐらしていないと、せっかく千載一遇のテーマやモデルを見過ごしてしまう。

 作者が持って生まれた感性に加えて、ものを見る訓練が必要である。つまり作者の目と傍観者の目は異なるということである。作家たらんとする者、常に自分の作品を通してものを見なければならない。

四、サスペンス

 とにかく読者を誘い込んだが、中だるみすると、読者は飽きてしまう。一体、作品の行方はどうなるのかと、読者に固唾を呑ませ、手に汗をにぎらせて緊張を持続させるのがサスペンスである。サスペンスを盛り上げるために時間を限ったり(例:時限爆弾)、危機的な状況(例:事故や災害、拙作『黒い墜落機(ファントム)』『誉生(よせい)の証明』)を設定したりする。また、大向こうを意識した派手なサスペンスではなく、彼我の対決による緊迫した心理によって、静かに緊張を高めていく(例:討ち入り前の赤穂浪士や巌流島前で決闘前の武蔵と小次郎)。

五、クライマックス

 サスペンスが登路であるとすれば、クライマックスは山頂である。ミステリーにおけるクライマックスは、言うまでもなく探偵が犯人を追いつめ、犯人を落とす場面であろう。幾重にも障壁(バリア)を張りめぐらした難攻不落の犯人に、ついに王手をかけ、まいったと屈伏させる。謎が不可解であればあるほど、クライマックスのカタルシス(快感)は大きい。

六、意外な結末

 討ち入りや巌流島は、その場面で一応終わるが、ミステリーの一筋縄でいかないところは、犯人が陥落した後、さらに二転三転して、意外な真相が露れることである。どんでん返しによって、これまで構築されてきた世界が一変する。まったく予想もしなかった未知の風景は、読者に強烈な衝撃をあたえる。しかもどんでん返しによる世界の化学的変化には、合理的な説明がなされなければならない。拙作例では『捜査線上のアリア』がある。

 読者はこれまで信じていた世界が、最後の一ページによって、まったく虚像にすぎなかったことを知らされ、愕然とするであろう。

七、ミステリーの趣向

 ミステリーはなぜ犯罪をテーマとするのか。ミステリーのテーマには特に殺人が多い。これは謎を設定するのに、殺人が最も適しているからである。殺人にはフー、ホワイ、ハウという謎を構成する三大要素が含まれている。謎があれば、犯罪でなくともよいはずであるが、たとえば善行の主はだれかという設定では、その主が判明しても表彰されるだけで、罰せられない。犯人が捕まれば死刑に処せられるかもしれぬとなれば、犯人は自分を守るために必死の知恵をめぐらし、何重ものバリアを設け、これを追う捜査陣と攻防の火花を散らす。つまり、犯罪は推理の趣向なのである。もっと深い謎や、面白いミステリー環境が設けられる趣向があれば、べつに犯罪でなくともよい。いまのところ、犯罪に勝るミステリーの趣向はなさそうである。

 犯罪に伴う社会、経済、国際状況、また人間の精神の暗黒なども、すべてミステリーの趣向と解釈してよい。つまり、ミステリーである限り、中核は謎にあり、本格、変格を問わず、ミステリー環境を構成するすべてのものは、ミステリーの趣向である。拙作の例としては『人間の証明』における西条八十の詩の挿入、『黒い神座(みくら)』における政治、『白の十字架』や『日本アルプス殺人事件』における山岳、『人間の条件』における新興宗教、『悪しき星座』の風土病、『雪の蛍』の昆虫の習性、『暗黒星団』の医学。

 趣向に制限はないが、殺人はなるべく節約したい(多く殺すと必然性と合理性が破綻する)。幼児の殺害、幼少年のボルノグラフィ、過度の虐待、大量虐殺、残忍性変態性欲、超不潔な好意などは、ミステリーのす品格を落とす。

 趣向のちがいによって、ミステリーの各ジャンルに分かれていく。また、推理の趣向の選択に、作者のタイプが現われる。

八、必然性

 合理性を要求されるミステリーでは、偶然は極力排される。犯人、または事件の真相解明に直接関わらない偶然は許容されるが、重大な関連を持つ偶然はタブーである。行末のなにげない描写にも、必然がなければならない。

 たとえば登場人物がなにげなく喫茶店に入る。一般の小説であれば、その喫茶店に入った意味は求められないが、ミステリーでは、なぜその喫茶店に入ったかという必然性が要求される。これが伏線である。結末において、あのとき喫茶店に入ったのはこういう意味があったのかと、読者が納得するような理由が欲しい。

 一般小説のように予定より早く終わってしまったとか、物語が発展して、いつ終わるかわからないというような構成では、人工の美学に反するのである。必然性はミステリーのキイワードと言ってもよい。

■文章

 文章には説明と描写と抽象がある。
 説明については、すでに述べたように主観性を排し、客観性と正確性が求められる。描写において主観が入ってくる。文章は抽象化が進めば進むほど高度になり、カバーする範囲が広くなる。反面、具体性が失われ、難解となる。読み手にも、それ相応の素養が求められるようになる。

 芭蕉の「五月雨をあつめて早し最上川」は説明句の見本であり、同じ作者による「夏草や兵(つわもの)どもがゆめの跡」は抽象句である。前者は、雨が降って川の水位が増したと説明しているだけであるのに対して、後者は、単に空間の描写に止どまらず、時間軸(歴史)が加わる。わずか十七文字によって膨大な歴史が描かれている。俳句の素養のない者でも、後者の完成度と抽象度の高さはわかるであろう。

 文章は書けば書くほど上達する。私はまず、好きな作家の文章の模倣から始めて、自分の文体を積み上げていった。文体とは、その作者独特の個性的な文章である。作者独自の誤用や誤字も、文体に含まれる。

 作家は個人の名前によって、多数の読者にアピールしなければならない。署名を入れなくとも、だれの文章ということがわかるような文体を練り上げなければならない。

■ミステリーのビジョン

 ミステリーは基本的人権の保障される民主主義社会において発達する。犯人の人権の保障されない社会や国家においては、合理的な証拠は必要なく、容疑者を捕らえて拷問にかけ、自供させれば、一件落着である。つまり、ミステリーは人権保障の指数とも言える。ミステリーがなくとも、人間は生存できる。ミステリーに限らず、文芸は生存にとって必要ない。だが、文芸以下すべての芸術、創作は、人間が人間らしく生きるために必須である。私の少年時代、太平洋戦争最中、国民が食うや食わずの生活を強いられているとき、文庫二百冊が配給(有料であるが、販売ではない)される書店の前に、長蛇の列が並んだことをおぼえている。その作品も、本人が選べるのではなく、お上のお仕着せであった。まさに人はパンのみによって生きるにあらずを実感した。

 だが、そのとき配給された作品はミステリーではなかった。ミステリーは香り高いコーヒーや紅茶とよく合う。人生いかに生くべきかという重い命題を問いかける(作品もあるが)ものではなく、人間が余裕を持って人生をエンジョイしているときに最も合う文芸ジャンルである。

幻冬舎 ポンツーンより転載


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