2016年6月17日、伊藤正一氏がお亡くなりになられた。伊藤氏のご冥福をお祈り致します。


三俣蓮華岳頂上にて。

寄稿 夢とビジョンの源流

森村誠一

伊藤正一氏とのお付き合いは古い。

初めて伊藤氏に出会ったのは、正確な年数は忘れたが、私のホテルマン時代、三十歳前後であったとおもう。高校時代から山によく登り、大学時代は北アルプス以下全国の山に登っていた。まだ百名山ブームは起きず、ホテルの仲間を連れて北アルプス裏銀座の縦走を狙って、湯俣から伊藤新道を伝い、三俣山荘へ向かった。そのとき伊藤さんと終始一緒に三俣山荘まで歩いたのである、そして伊藤さんが開いた伊藤新道の景観に魅せられ、新道開通までの筆舌に尽くしがたい苦労を小説に書きたいとおもい、当時、新宿区内にあった伊藤さんの東京住居を訪ねて、書き始めたのである。

まったく無名の、まだ作家になっていない私の取材に、伊藤さんは快く応じてくれて、四百字詰め原稿用紙で約千二百枚、『虚無の道標』完成した。

その完成祝いを伊藤さんと二人でホテルニューオータニのラウンジであげた。まだ私には主食堂に入るほどの経済力はなかった。

まことに貧しい、伊藤さんに対して失礼な打ち上げであったが、その翌年、江戸川乱歩賞を受賞して作家デビューを果たした。

そのとき、だれよりも喜んでくれたのが伊藤さんであり、そして『虚無の道標』の出版に協力してくれた那須英三氏であった。那須氏は受賞作品が発売される前に『虚無の道標』を「受賞作前第一作」と仰々しく帯を付けて、出版してくれた。こんな帯は初めてである。

こうして私は、その後、伊藤さんに招かれてヘリコプターで三俣山荘に登ったり水晶岳や雲ノ平、三俣蓮華岳などに案内されたりした。そして水晶岳からアルプスの楽園雲ノ平、これを取り囲む鷲羽岳や三俣蓮華岳、黒部五郎岳、また双六岳の彼方に天を突く槍の尖峰などを見ている間に、私の作品の中では最長編の一つとなった『青春の源流』が雲ノ平で熟成された。

その後、伊藤さんから何度も三俣山荘や雲ノ平に招待されたが、なかなかタイミングが合わず、伊藤さんから送られてくる写真集や三俣山荘誌「ななかまど」などを見ながら、北アルプス最深部の三俣蓮華岳や雲ノ平で過ごした青春の日々を回想していた。

相次いで送られた伊藤さんが撮影した写真集に刻み込まれた源流の記憶や、『黒部の山賊』と開拓時代などは、その舞台とアルプスの折々の姿と、山に囲まれた人たちの歴史が濃密に書き込まれている。

人間が関わって初めて、まさに神々の座に相応しい、美しくも個性的な山容の妍(けん)を競う。

不動の北アルプスに対して、伊藤さんは物理学を専攻、考案したターボプロップエンジンの開発に没頭中終戦、上高地から北アルプス深奥まで入り三俣蓮華小屋、水晶小屋の再建から、伊藤新道を開通してアルプス最深奥の秘境奥ノ平を開拓した。さらに足跡をヨーロッパアルプスに延ばして、写真家としてのグローバルな作品を創作するまで、まさに波瀾万丈の人生を織りなし、今日に至っている。

学生時代から満天にちりばめられた星屑の下、天体観測をしながら北アルプス最深奥に天文台を設置する夢と共に、雲ノ平をアルプスの楽園として社会に紹介。山を恋い、愛した伊藤さんの果てしもないロマンティシズムが、戦時中閉鎖されたアルプスの楽園を国民へ返したのである。

その間、荒天下、道に迷った登山者、体力不足の人々を救った数は数えきれない。困難をきわめた伊藤新道の開通は、北アルプス二日地帯の最深奥を一日地帯に変えた。歳月の経過によって通行不能となったが、伊藤さんの見果てぬ夢は止まらない。

伊藤さんにとって雲ノ平を囲む北アルプス最深奥部永続が夢であるとすれば、そこに住む人々との関わりは理念(ビジョン)であろう。人間あっての山であり、山がそこにあるからこそ人間が集まって来る。

山集人(山に集まる人)には大別して五種類ある。一は、山を職業とする人である。ニは、山と向き合い、未踏峰に足跡を残し、可能性の限界を押し進めようとする人。三は私のような山を人生の癒(いや)しとする者、四は山を神として尊信する者である。三、四が重複している人は少ない。

五は、宗教色の有無に拘(かかわ)らず、山岳文化の発展に寄与する、例えば絵画、写真、詩、小説、音楽、墨書など、山を源として創作する人々である。
これらの全てを併合している人は少ない。だが、伊藤さんはこれらの全てを共有している。宗教色は薄い。

私自身が第五の範疇に入り、作家になったきっかけは、伊藤さんとの出会いが大きい。特に雲ノ平を源泉とした発想は、伊藤さんと切っても切り離せない。先述のように、人間なき山は単なる地勢にすぎないが、雲ノ平およびその周辺は、伊藤さんによって生命を吹き込まれた。山の生命は人間と共有するものである。

戦中、敗色濃厚なとき、雲ノ平を海軍零戦の秘密基地に改造しようという発想が軍部にあったらしいことを、伊藤さんから聞いた。

零戦秘密基地は補給が難しく、地元の人々の反対が多く、流れたという。雲ノ平と零戦の関わりは、追い詰められた軍部の狼狽ぶりを示している。

そして零戦秘密基地反対の意図は、馬鹿げた戦争のため一度限りの人生を無駄にできないと徴兵忌避をして、北アルプス深奥に“隠れた人々”の支援があったという伝説もある。いずれにしても山と共に生きた人々の努力によって、今日の北アルプスはある。

大学を出て大阪のホテルに入社した夏、ホテルの仲間と共に、北アルプス裏銀座を経て、野口五郎岳を通過し、台風で破壊された水晶小屋近くの尾根で野営した。天候が急変すれば最も危険な場所に、知らぬが仏で野営したのであるが、当夜、満天の星の下、アルプスを独占したような気分になって快適な夜を明かした。

翌朝視野に、ワリモ岳、鷲羽岳を経由して三俣蓮華山荘から槍ヶ岳方面へ向かう縦走路は、糸のようにつづいていた。さらに視野を転じると三俣蓮華岳から黒部五郎岳を経由して、薬師岳、立山方面につづく、当時はダイヤモンドコーズと呼ばれた縦走路に抱き込まれるようにして雲ノ平が広がっている。

そのとき私は、空と地平が溶接したように青く烟(けむ)る、限りもない遠方に、私の未来が、無数の出会いが、青い空間の奥にあるように感じられた。それも伊藤さんがそれとなくあたえてくれた夢(ドリーム)とビジョンがスカイラインの彼方にあるように見えた。

若き日、伊藤新道で奇しくも伊藤さんに出会わなかったならば、『虚無の道標』は生まれず、また雲ノ平を訪れることもなく、『青春の源流』は、だれか他の作家が書いたかもしれない。

私にとって山との出会いは人間との出会いでもあったのである。そしてその人間は、伊藤さんであった。一度限りの人生はドリームとビジョンによって構成される。

戦争中、男は二十歳で死ぬものと義務づけられていた。若者の将来は軍人、女性のそれは看護婦であった。戦争が始まる前に、それぞれの若い無数の人生は破壊されたのである。

一九四六年、伊藤さんが水晶小屋の経営権を買い取ったとき、永久不戦を誓う日本国憲法が交付された。そして伊藤新道のルート選定が開始されたのである。また翌年、三俣蓮華小屋の営業が開始されて、『岳人』が創刊された。私にとって伊藤さんと北アルプスは人生の再生につながったのである。

伊藤正一写真集 源流の記憶 「黒部の山賊」と開拓時代(山と渓谷社)
2015年10月刊行より


三俣山荘前にて。前列左端・伊藤正一氏。