安保法案反対の参加者が東京を中心に全国から国会前に集合した。つづいて九月六日、新宿の繁華街に一万二千の安保法案反対の学者、識者、学生ほか多数の市民が、安倍政権が強行する憲法改変、永久不戦の誓いから戦争可能国家への改造、自由と民主主義の否定などの暴走に対して、危機感を抱き、全国から馳せ参じたのである。
安倍政権は立ち上がりから胡散臭いにおいをまとっていた。首相の側近をお友達以上の都合のよい人物で固め、戦後日本の主柱である九条を勝手に解釈改変、一人勝手に自衛隊を米国に超安値で売り渡し、日本の大切な用心棒を米国の命令に従って世界のどこにでも派遣する手形を発行し、沖縄を叩き売り、無責任な原発再稼働、教育を日本の前科隠蔽に利用して、国民大多数の轟々(ごうごう)たる反対に耳を貸さず、国会で圧倒的多数を占めた与党を「私がいちばん偉い人」として牛耳り、閣議はほとんど独裁で決議した。
戦争を知らない独裁者ほど戦争をしたがる。しかも、戦時中、軍部の中核にいた祖父が政権を取り、憲法改変に挑んで敗れた見果てぬ夢を果そうとする独裁者の個人的動機が大きい。
政権は国民という主権者から一時期信託された借り物に便乗して、権力を独占して、七十年前戦争という人類の天敵を克服して、ようやく取り戻した自由と平和と民主主義を否定する暴走をつづけている。
安保環境は、いつの時代でも変化している、抑止力、積極的平和などと勝手な言葉をつくり、かって来た道を再び歩かせようとしている。
今や国家と国家が宣戦布告して戦争を始める時代ではない。
民主主義を振りかざしながら、与党の構成員を家来として独裁者に成り上がり、主権者の反対に目や耳を逸らして政権を私物化している。歴史を振り返れば、戦争はほとんど一人の独裁者の意思によって始まる。つまり、戦争も独裁者が私物化しているのである。独裁者は、国民が失った(奪った)人生や生命や家族や、仕事や友人や財産などを奪った償いは決してしない。主権者がそれらを失ったときは、独裁者はおおむね権力を失っているか、死亡している。
この便乗政権の暴走を阻止しようとする国民の大多数は、それぞれの仕事、学業、時間、経済力、体力、家族などを犠牲にして、自発的に自由と平和を守るために集まり、声を上げている。それに反して独裁者に忠誠を誓った者は厚い庇護を受ける。政権に近い要人の一人は、なんと国会議事堂前に集結した十二万五千に対して、「たったあれだけの人数、人気芸能人のコンサートのほうがまし」と放言し、日本の人口は一億あると言った。安倍政権の暴走を阻止するために集まった人数は、単なる数字ではない。一人一人が十人以上の抗議を背負っている。しかも国会前だけではない。組織や権力に厚く庇護されている人間と異なり、国民は自弁というハンディキャップを背負って政権の暴走と闘っている。
権力に向かい合って、決してあきらめない自由と平和を守る人たちは、数字では測れない熱い情熱を持っている。
単なる十二万や百万の怒りと抗議ではない。国民一人一人が戦争という大きな犠牲を踏まえて、独裁者によって一度限りの人生を破壊されぬように集結しているのである。
朝日新聞2015年9月13日「声」原文