※この年譜は、山前譲編『森村誠一読本』(1998年10月KSS出版)
収録年譜をもとに新たな情報を加え作成いたしました。
(資料提供:町田市民文学館ことばらんど)

1933年(昭和8年)0歳1月2日、埼玉県熊谷町(現・埼玉県熊谷市)に父・森村徳蔵、母・雪枝の長男として生れる。弟2人・妹2入の5人兄妹。
1945年(昭和20年)12歳8月14日深夜から15日未明にかけての熊谷空襲により被災。宝物であった蔵書の数々も焼失した。
1948年(昭和23年)15歳4月、熊谷市立熊谷商工高等学校(現・埼玉県立熊谷商業高等学校)商業科に入学。元軍医の伯父に診断書を発行してもらい学校を長欠して毎日熊谷図書館に”通学”『世界文学全集』読破に挑む。更に日本文学、古典、歴史・時代小説などを手当たり次第に読み漁り乱読に拍車がかかる。
1951年(昭和26年)18歳3月、熊谷市立熊谷商工高等学校を卒業。
4月、伯父の紹介で新橋にある東芝系の自動車部品会社、清水商店に入社。職場のアルバイト学生の影響で雑誌小説の世界に没頭。古本屋でバックナンバーを束で購入し読み耽る。
1953年(昭和28年)20歳4月、清水商店を退社し、青山学院大学文学部英米文学科に入学。自宅で英語塾を開校し、学費を工面する。また、ハイキングクラブ(AGHC)に所属、日本の主だった山々を歩く。クラブの先輩の薦めで高校時代に頓挫したロシア文学、フランス文学、ドイツ文学などヨーロッパの文学に傾斜。串田孫一や尾崎喜八など山岳文学にものめり込んだ。
1958年(昭和33年)25歳3月、山に登りすぎて単位が足りず、一年留年したのち、青山学院大学を卒業。
4月、就職難で志望していた日本交通公社やマスコミには就職できず、大阪の新大阪ホテルに就職。のちに系列の大阪グランドホテル(現・リーガロイヤルホテル)に移る。
1959年(昭和34年)26歳3月、東京にオープンした系列の都市センターホテルに移る。アパートの近くの貸本屋に内外の推理小説やQ。国小説が集められていたのをきっかけに推理小説の世界に大きく傾斜。早川ミステリーを読み耽り、エラリー・クイーンに最も強い影響を受ける。また、勤務先のホテルの前に文藝春秋の新社屋ができたことから、梶山季之、阿川弘之、笹沢左保など多くの売れっ子作家が来館。刺激を受け、自分自身も小説を書きたいという気持ちが強くなる。
1965(昭和40年)32歳4月から12月まで「総務課の実務」にサラリーマン向けのエッセイを雪代敬太郎名義で連載。
11月、それを再構成した『サラリーマン悪徳セミナー』(池田書店)が最初の著作となった。
1966年(昭和41年)33歳2月から9月まで、週刊誌「F6セブン」に「不良社員群」を連載。
1967年(昭和42年)34歳6月、ホテルニューオータニを退社し、千代田区一ツ橋の東京スクール・オブ・ビジネス、ホテル観光科の講師に就任。
8月、初の長編小説『大都会』(青樹社)を刊行。
9月、「殺意の架橋」がオール読物推理小説新人賞の最終候補となるが、全選考委員から無視される。
1968年(昭和43年)35歳3月に『銀の虚城(ホテル)』(青樹社)を9月に『分水嶺』(青樹社)を刊行。しかし、まったく売れなかった。
1969年(昭和44年)36歳6月24日、青樹社の那須英三の「きみの作品には推理性があるから、推理小説をかいてみたらどうか」というアドバイスを受け書き下ろした「高層の死角」で第15回江戸川乱歩賞を受賞。
1970年(昭和45年)37歳3月、江戸川乱歩賞受賞第一作として「虚構の空路』(講談社)を刊行。
8月、カッパノベルスから『新幹線殺人事件』(光文社)を刊行。
1971年(昭和46年)38歳2月、『密閉山脈』(講談社)を刊行。
1972年(昭和47年)39歳初めての週刊誌連載長編として「腐蝕の構造」を「サンデー毎日」に発表。
1973年(昭和48年)40歳4月、軍事産業と政官財癒着の構造を描いた『腐蝕の構造』(毎日新聞社)で第26回日本推理作家協会賞を受賞。同時受賞は夏樹静子の『蒸発』であった、
1974年(昭和49年)41歳「小説現代」に発表された「空洞の怨恨」で第10回小説現代ゴールデン読者賞を受賞。
1976年(昭和51年)43歳角川春樹から「作家の証明書になるような作品を書いてもらいたい」といわれ、1月に刊行した『人間の証明』(角川書店)で第3回角川小説賞を受賞。後にシリーズ化された棟居弘一良刑事が初登場する。見城徹(現・幻冬舎社長)が担当。
4月『超高層ホテル殺人事件』(光文社)が監督・貞永方久、主演・近藤正臣、由美かおるで映画化され、松竹系にて公開。
6月、『森村誠一自選傑作短編集』(読売新聞社)を刊行。読売新聞社、郷原宏(現・文芸評論家)が担当。
8月、『森村誠一長編推理選集』全15巻(講談社)の刊行開始。
1977年(昭和52年)44歳4月、『青春の証明』(角川書店)を刊行。
9月、『人間の証明』「青春の証明』につづく証明シリーズ第3作目として『野性の証明』(角川書店)を刊行。
10月、『人間の証明』が監督・佐藤純彌、脚本・松山善三、主演・松田優作で映画化され、東映系にて公開。脚本は賞金五百万円を掲げプロアマ問わず大々的に募集された。また、映画公開に先駆けて9月21日から10月1日まで、全国10都市15書店で『人間の証明』サイン会を実施。映画も大ヒットし、全国的な証明ブームとなった。
1978年(昭和53年)45歳1月、映画の大ヒットを受け、テレビドラマ版『人間の証明』が放映。
2月、『森村誠一短篇推理選集』(講談社)の刊行開始。
7月、映画版「野性の証明」のロケ見学のためアメリカ西海岸へ。
10月、『野性の証明』が監督・佐藤純彌、主演・高倉健、中野良子で映画化され、日本ヘラルド映画、東映系にて公開。長井頼子役を演じた薬師丸博子(現・薬師丸ひろ子)の「お父さん怖いよ。誰かがお父さんを殺しにくるよ」の台詞が話題となった。また、映画版「人間の証明」と同様、公開前に北海道帯広から熊本にかけて全国18都市25書店で縦断サイン会を開催。出版、映画、音楽をジョイントした三位一体の大キャンペーンで多くのファンが訪れ、全店で二万五千冊の自著にサインをおこなった。この年、国税庁の高額所得者発表で作家部門のトップとなる。
1979年(昭和54年)46歳1月、『人間の証明』につづき、『野性の証明』も角川春樹事務所の企画でテレビドラマ版を放映。
1980年(昭和55年)47歳6月から翌年の9月にかけて「死の器」を「赤旗」(現・「しんぶん赤旗」)に連載。関東軍満州第七三一部隊(正式名・関東軍防疫給水部)を取り上げたところ、生存者から連絡があり「悪魔の飽食」を書くきっかけとなる。
1981年(昭和56年)48歳11月、関東軍満州第七三一部隊(正式名・関東軍防疫給水部)の戦争犯罪を告発した『悪魔の飽食』(光文社)を刊行。人気絶頂期に刊行された本著は、七三一部隊の存在を広く知らしめ、社会に衝撃を与えた。
1982年(昭和57年)49歳9月、『続・悪魔の飽食』(光文社)巻頭グラビアの写真誤用が発覚。『悪魔の飽食』『続・悪魔の飽食』のほか、続刊を含むすべての版が回収・絶版となる。
1983年(昭和58年)50歳4月、初の短篇歴史小説集『真説忠臣蔵』(新潮社)を刊行。
8月、新たな中国取材をもとに『悪魔の飽食第三部』(角川書店)を刊行。また問題の写真を削除、版『悪魔の飽食』『続・悪魔の飽食』(いずれも角川書店)を復刊。一部改訂の上、新版【悪魔の飽食』『続・悪魔の飽食』(いずれも角川書店)を復刊。
1984年(昭和59年)51歳3月、山村正夫との対談による『日本国憲法の証明』(現代史出版会)を刊行。
6月、個人の人生の目的よりも会社の目的を優先する会社員の悲劇を描いた『社奴』(講談社)を刊行。のち『社賊』(講談社)、
1986年(昭和61年)53歳1月、「週刊朝日」の編集者だった重金敦之との出会いがきかっけとなり執筆された『忠臣蔵』(上・下)を刊行。歴史。時代小説に意欲的に取り組むようになる。
1987年(昭和62年)54歳1月、新宿署の牛尾正直刑事が初登場する『駅』(集英社)を刊行。本作で牛尾刑事は息子の慎一を殺人事件に巻き込まれ失う。
3月、刑事の理念を追求した『腐蝕花壇』(新潮社)を刊行。『死都物語』や『死又路』などで活躍する、作家・北村直樹が初登場。
1988年(昭和63年)55歳1月、元禄を舞台により創作性を重視した時代小説『刺客の花道』(文藝春秋)を刊行。
1989年(平成元年)56歳1月、組織暴力団に戦いを挑む老人たちの冒険小説『星の陣』(光文社)を刊行。全国・地方紙23紙に連載し記録を樹立した。
1991年(平成3年)58歳1月、神奈川県厚木市の団地から東京都下に転居。
3月、『森村誠一長編推理選集(第二期)』(講談社)の刊行開始。
6月、太平洋戦争の分岐点に材をとった『ミッドウェイ』(文藝春秋)を刊行。
9月、一振りの剣が転々と持ち主を変えて時間を旅する通史小説『人間の剣』(光文社)を刊行。
10月、『忠臣蔵』『新撰組』に続く歴史小説『太平記』(角川書店)の刊行開始。
1993年(平成5年)60歳1月、初めてのシリーズキャラクターを冠した『棟居刑事の復讐』(角川書店)を刊行。以後、棟居刑事シリーズが続々と刊行される。
9月、角川事件の発生に際し、「角川書店の将来を考える会」を自ら主導して結成。その記録を翌年2月に『イカロスは甦るか角川事件の死角』(こうち書房)として刊行。
1994年(平成6年)61歳9月、非道人別帳シリーズ第1作『悪の狩人』(文藝春秋)を刊行。
1996年(平成8年)63歳1月、森村誠一原詩、池辺晋一郎・神戸市役所センター合唱団編詩、池辺晋一郎作曲の阪神淡路大震災鎮魂組曲「1995年1月17日」の一部を、神戸・船上メモリアルコンサートで発表。全曲は4月、神戸文化ホールで披露された。
1998年(平成10年)65歳11月、『人間の証明PART2』(角川春樹事務所)を刊行。
1999年(平成11年)66歳8月1日から11月28日まで企画展「森村誠一の証明現代社会のリポーター」がさいたま文学館で開催される。続いて12月18日から翌年の3月5日まで、熊谷市立文化センター文化会館開館20周年記念として「小説家・森村誠一文学展」が同センター内郷土資料展示室で開催される。
11月、山村正夫氏の死去に伴い、小説家入門山村教室の名誉塾長に就任。後進の指導にあたるようになる。
2001年(平成13年)68歳12月、森村誠一公式ホームページがオープン。
2003年(平成15年)70歳10月、第7回日本ミステリー文学大賞を受賞。
2004年(平成16年)71歳携帯小説に挑戦。
2005年(平成17年)72歳7月、癌により早世した詩人・宮田美乃里の真実の姿に迫る恋愛小説『魂の切影』(光文社)を刊行。
12月、デジタルカメラの普及にともない、日常の写真に俳句をつける写真俳句を提唱、『森村誠一の写真俳句のすすめ』(スパイス)以下、三冊を刊行。
2006年(平成18年)73歳9月1日から翌年の1月21日まで「森村誠一文学展」が熱海市起雲閣で開催される。
2007年(平成19年)74歳3月、『地果て海尽きるまで』(角川春樹事務所)が、モンゴル建国八百年記念、角川春樹事務所創立10周年記念作品として、監督.澤井信一郎、主演・反町隆史、製作総指揮・角川春樹で映画化され、松竹系にて公開。
2008年(平成20年)75歳2月、『小説道場』で第10回加藤郁乎賞を受賞。
4月30日から5月3日まで町田市市制50周年記念協賛事業として「森村誠一文芸展」が小田急百貨店町田店で開催。
2009年(平成21年)76歳角川歴彦企画「森村誠一が歩く、新・おくのほそ道写真俳句紀行」で松尾芭蕉の行脚した道程を紀行探訪。
オリジナル著作356冊、全社・全版形1,374冊、総発行部数約1億4,650万冊に達する。
10月、町田市民文学館ことばらんど開館3周年記念特別企画展「森村誠一展拡大する文学」を開催。
2011年(平成23年)78歳「悪道」(講談社)で第45回吉川英治文学賞を受賞
2015年(平成27年)82歳作家生活50周年を迎える



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