2010年度 山村教室開講式 島田荘司先生ご講演 3

私が経験したことをお話しましょうか。わたしは吉祥寺に住んでいるのですが、いつも井の頭公園を通ってこういう場所にまいります。井の頭公園には池があって、だから橋を渡ります。ある日、その池に木箱が浮いたのです。なんでこんな場所に? と思っていたら、その箱が日々増えるのですね。さらに日が経てば、その箱が一列に並びました。おや、不思議なこともあるものだなぁ、と思いました。

この段階で、この風景を使って、たぶんミステリーも書けるでしょうね。ご存知かどうか解りませんが、井の頭公園では、バラバラ死体が発見されたことがありました。切断した各パーツ、袋に分けられて、ゴミ箱や、その周辺に棄てられてました。確か被害者は特定されましたが、この人が殺された理由がどうしても解らない。だから、間違えて殺されたのだろう、そういう話になりました。結局、迷宮入りになったのではなかったかな? そうなら、池に浮かんだ木箱の中に、頭部や胸部や、脚が入っているのではないかと妄想する人も、きっといますよね。もっと少年っぽく、怪人二十面相的な悪人が、子供たちに「預言の書」を与えておいて、井の頭公園に箱が浮くよ、その箱の中にはある大事なものが入っていると予告する、なんて作り方もできるかもしれない。

しかしながら、この現象には散文的な答えがあるのです。木箱には非常に強い浮力があります。そうなら何か重いものを支えられますね。木箱が増えていき、水の上で一列になり、その上に板が渡され、ある日橋になったのです。すると、池にかかっていた横の古い橋が壊されはじめました。つまり、臨時の浮橋だったのです。木箱はその台だった。今ある橋が古くなったので、壊して修理する前に、臨時の橋を横にかけたのです。

答えを聞けば、なあんだと思うことですが、池に次々に木箱が浮かび、それが一列に並んでいく過程は、とても不思議な気持ちがしました。こういうふうな謎があり、最後には理に落ちる解決がある、百人が百人とも納得する解決編が後段に付くもの、これが探偵小説なのですね。

そして、現状の橋がずいぶん古くなっているな、とか、木箱には浮力があるなという観察、一直線になるのはどうしてだろう、こういう思考から、あるストーリーを蓋然性高く導き、描いていく行為、これが推理ですね。これらをあやまたず積みあげていけば、正解が導かれることもあります。こういう経緯、推理過程を持つ小説を、「本格のミステリー」と呼ぶわけです。

特殊なことのようにお考えかもしれませんが、自然科学のフィールドというものは、実はこういうもので埋まっているわけです。学者たちは、日々こういう行為を為しています。例えば、インフルエンザ。季節性ではないインフルエンザは、まず人間とアヒルとブタが接近して暮らしているところで起こりますね。例えば香港のような。インフルエンザという病原体の発生、これもミステリアスな事件の発生です。ミステリー色が濃いか薄いかは別ですよ。

これは調査の結果、北から飛来してくるカモが、まずアヒルにインフルエンザをうつし、アヒルにうつったインフルエンザは人間にはうつりませんが、ブタにはうつって、ブタの体内で遺伝子の組み換えが起こり、人間に伝染できるかたちに変化している、ということが解ってきます。ということは、カモは常に北極圏から、インフルエンザの菌を運んできていることになりますね。カモは実は全羽保菌していて、インフルエンザの菌と共生しているということです。

では、どうして北極にインフルエンザの菌がたくさんいるのか。またインフルエンザの型が変わるとはどういうことなのか。北極圏にはインフルエンの菌を集めたり、型を変えたりする何かがある、ということです。以下は仮説で、証明されてはいませんが、地磁気に引き寄せられたインフルエンザの菌が、ゆるゆると北極に降るのではないか。太陽の黒点が多いとき、太陽風が強いときに、インフルエンザの型が変わる、と言う学者もいます。

それが本当なら、インフルエンザの菌は、宇宙から来ているわけです。自然科学や医学の領域には、こうしたミステリーは数多いです。子宮にまで内視鏡が入るようになり、羊水の中に浮かんでいる子供には、鼻や耳の穴に、白い栓が見えるそうです。しかし、生まれてくる時にはありません。どこに行くのだろう?

カール・リンネという十八世紀の科学者が、「花時計」というものを作りました、時計草はお昼に咲き、大待宵草は夕方花が咲きます。こういうふうにピックアックしていけば、毎時間咲いている花が見つけられます。つまり花が咲く時で時刻が解ることになる。午後一時に咲く花、二時に咲く花というように、花が咲く時刻に、植物によって違いがある。二時に咲いて、二時五分にはもうしぼむというわけではありませんが、開花のピークということです。これ自体はただの面白い遊びですが、同じようなことは、実はヒトの病の発症にもあるわけです。

喘息は、統計上午前四時ごろが一番起こりやすいそうです。午前五時から六時ごろには歯痛が起こりやすい。もちろんそれ以外の時刻にも起こりますが、統計上一番多く起きる時刻、という意味です。朝六時から七時にはアレルギー性鼻炎の発作、朝八時には慢性関節リュウマチの痛みです。九時には心筋梗塞の発作が起きやすい。十時には脳梗塞、午後三時から四時ころにはてんかん患者の発作が起こりやすいそうです。夜七時から八時には脳出血が起こりやすい。

これらの現象を使うと、「花時計」ならぬ、「病時計」ができますね。これらもまた事件の発生です。そして解決は、まだついていません。ひとつの仮説としては、免疫機能も時計を持つのではないか、ということ。また、たとえばガンが転移していく現象にも、起こりやすい時間帯というものがあるのではないだろうか、という推察が導かれます。そうなら、薬を呑んでもよく効く時間帯と、そうでない時間帯とがある、そういう話になります。もしそうなら、こうした観察と原因の究明は、人類にとって、とても大切なことですね。

こういう現象を見つけ出し、その理由に仮説を立て、それを証明するためにさまざまな実験をして証拠集めをしている医師たちの行動は、これはミステリー小説の中の探偵のありようそのものですよね。確率高く「犯人=原因」に迫れる人のことを名医、あるいは名探偵と言ってもよいのではないでしょうか。

犯罪と関係のない話ですが、敢えてしています。ミステリー小説を支えるファクターは、殺人だけではないということです。こういう方向は、ミステリーとしてはまだ未知の領域で、これをしっかりと描いた本格ミステリーというものは、ほとんど存在しませんね。そうならこれは肥沃な大地です。例えば、大事な人が未知の病で死にそうであるとか、医者の恋人が患者であるなど、魅力的な設定はいくらも考えられるでしょう。本格のミステリーは、殺人と、その犯人特定という要素だけではないのだということを解っていただきたくて、このようなお話を致しました。

病気の特定というのも、本格ミステリーのドラマです。例えばしばしば二十分程度意識を失う患者がいたとします。モーレツ社員なのだが、仕事をしている時、運転している時も、急に意識を失ってしまう。危ないですね。しかし覚醒後の意識はすっきりとしていて、めまいも吐き気もない。強い妄想も伴わない。この病はいったい何なのか、医師ならこの病の名前と、発生の理由を突き止めなくてはなりません。

医学の領域では、失神とは二~三分程度意識を失う現象を言うようです。それ以上長いものは意識障害となるわけですね。二十分間も意識を失い、吐き気、頭痛などもないとすれば、不整脈、一過性の虚血発作ではないという推察が起こります。またこれらなら、苦痛がいっさいないという事態は考えられない。

続いてナルコレプシーという脳の病気が考えられる。ところがこれは大変な悪夢を見ると言われます。そうならこれも証拠状態と合わない。よくよく患者の話を聞いていると、広い家に住んでいるのに、奥さんが寝室を別にしているという証言が得られます。ということは、奥さんの側に、一緒に寝られない理由があるのではないか、という推理が起こってきます。その理由は何か。一緒には寝られないが、奥さんは病気とは考えていなかったわけです。するとこれは、平易なものでもあるはず。加えて、最近現れた内容と思われます。

←前へ|3|次へ→
12345678910