2010年度 山村教室開講式 島田荘司先生ご講演 10

――では、次の質問を、お願いします。

受講生 今期からこの教室に入りました。私はずっと青春小説を書いていて、ミステリーも書きたいなと思っているのですが、まだ勉強の段階で、今日この講義を聞いたのですが、ミステリーを書こうと考えている初心者がまず思ってしまうのは、要はネタがもう残っていないのではないか、ということ。出し尽くされていて、いざ挑戦してみようという時に、勇気が要るというか……。今も現役で、たくさん作品を書かれている先生に、ミステリーの可能性はまだまだたくさんあると思っていらっしゃるのか、それとも、いや、ネタは正直もうないと思っておられるのか。それをお訊きしたいと思います。

島田先生 この質問は、お答えするのが簡単です。まだまだあります。わたしはまだまだ持っています。一生のうちに書ききれないでしょう。そのことをお話したくて、最初に、医者が名探偵であること、自然科学の領域のこと、犯人が人間ではなくて、病原体、病の名であったりもすることなどを、お話してきたわけですね。

幽霊現象というものもありますね。神社の杜に出てくる古典的な幽霊ではなく、ラマ・チャンドラサンという人が『脳の中の幽霊』という本を書いていますが、京極さんも言いましたね、とても慧眼だと思いますが、幽霊の目撃談において、五人の目撃者うちの五人ともが幽霊を見たのであれば、確かにいたのでしょう。が、五人のうちの一人が見ただけということならぱ、その人の胎内が作り出した幻視だと判断した方がよいのではないか、という考え方です。

アメリカの南北戦争以降、「幻肢」という現象がよく知られるようになりました。脚がなくなった方の、爪先が痛いとか痒いといった現象ですね。これも幽霊の一種です。脳の中で脚を意識する脳の部分の、器質的な故障かもしれません。そうならば、自分の右脚と同じように大事な人がいたとする。そういう人を失ったとしたら、生存にも関わる危機ですね。そういう場合、その人の精神に一時的な安定をもたらすため、脳が幻を見せているかもしれない。そのような解釈もあり得ます。

ラマ・チャンドラサンの本は言いますが、幽霊は暗がりにいるのではなく、今や研究室の煌々としたあかりの中に出現を始めている。二十一世紀の今も、幽霊は滅んではいない。よりリアルなかたちで出現を始めているともいえる。この場合のキーワードは、「脳科学」です。すなわち脳科学にアプローチし、勉強することによって、新しいミステリーは現出可能だということです。これは、すすきや古井戸のような、古典的な舞台装置によるものではないですね。脳の中の幽霊は、そういう方向のものではない。

その新しいやり方をどう用いるかと言えば、例えばわたしの作品では……、タイトルを忘れてしまったが……(ここで穴井副編集長が、『ネジ式ザセツキー』、『ヘルター・スケルター』と声をかける)、そうそう『ネジ式ザセツキー』だ。『眩暈』などもそうかもしれないですね。

私は自分の作品は、書く端から忘れることにしているんです。これももしかしたら、私の創作上の秘密なのかもしれませんが、自分の書いた作品を、「ああ、自分はいいものを書いたなぁ、俺って天才だろうか」などとぐずぐず思っていたら、絶対に、次の作品の質が落ちます――。

まぁそれはいいとしまして、『ネジ式ザセツキー』や『眩暈』で、科学の最前線に幽霊的なミステリー現象を求めるという方法を、示したつもりです。そのようにして、未開の領域に手段を見つけることですね。

ちょっと力技が必要かもしれませんが、手つかずの世界は、まだまだいくらでもあります。実際に京極さんはやったではないですか。わたしが現れる前にだって、トリックはもう出尽くしたと、さんざん言われていました。ミステリーは百五十年もの歴史を持っているわけですからね。おそらく森村先生が出られた時も、そうではないでしょうか。でもお互い、たくさん書いてまいりました。

本格ミステリーとは、「驚きを演出する人工的な装置」のことです。そうなら、驚きを維持し続けるという発想が最も肝要ということです。小説としての感動も、この驚きの中にあります。読者を驚かせる手段や、アイデアを私は探し続けています。その手段は、犯人がいて、上手な隠蔽のアイデアを思いついた、というだけの構造では、だんだんにもたなくなります。読者も先廻りするようになりますからね。

読者を驚かせる手段は、自然科学や医学の領域、とりわけ脳科学、あるいは宇宙工学。そういった専門領域の中に必ずひそんでいます。幽霊現象もそう。これこそは脳科学の守備範囲です。犯人が自らの犯罪を隠蔽するというようなオーソドックスな方向においてさえ、クローンとかips細胞の時代に入っている医学、生物学のジャンルに、応用できる方法論はあるんです。

ジャンルが違うから、一見馴染みませんね。作家たち、みんなそう考えて捨ててしまいます。しかし粘着質的にそこに食いつけば、必ず何かを見い出せます。だってミステリーは、脳が作り出しているんですからね。ミステリーとは、突きつめれば「脳の文学」なんです。ポイントはそこです。脳の科学です。

そういうことを勉強していきます。そうすると、馴染まないという考え方が誤りだということが解ってきます。その世界に、本格のミステリーに応用できるメソッドが必ず見つかります。私は、見つけられました。もちろん失敗することもあります。ちょっと専門的になるので、むずかしくなる危険もありますね。しかし本格ミステリーとは、もともとむずかしいものなんです。

本格ミステリーとは、「驚きを演出する装置である」という理解を厳に持つことです。そうすれば迷いがなくなりますね。続いて、その驚きを支える材料を、いろいろなジャンルに探していきます。こうしたアンテナの立て方を維持していけば、作品のクオリティを維持できます。私自身、今後も挑戦を続けていきます。

これに関して、ちょっと大事なことを言いましょうか。みなさんが小説のアイデアを思いついたという時にお勧めしたいことは、必ずメモをとる、ということです。文字化しておくということです。「こんなアイデア、明々白々だから忘れるわけないよ」と思うでしょう。むろんそれは正しいのですが、それは今だからです。小説家になって五年、十年という月日が経てば、忘れるようになります。あまりにたくさんのトリックが頭を充たしますから。

たとえば起こる不思議な現象だけをメモしておけば、二、三年経って読み返せば、なんでこんな現象が現れるんだろう、はてどうやるんだっけ? と必ずなります。そしてアイデアのメモは、書けばそれで終わりではないのです。文字化すれば、必ずその先が見えてきます。これは時代小説や文芸畑の小説でも同じだと思います。また浮かんだアイデアが、よいものなのか、それとも凡庸なものか、その時点では解らないことも多いです。勘違いも起こります。これはすごいアイデアだと思っていても、翌朝しらふになって思い返してみたら、たいしたことない、そういうこともあります。この逆もあります。

ですから、メモをしておいて、それをいったん忘れてしまう。そして一年ぐらい経って読み返してみれば、他人の仕事のように客観評価ができます。よいアイデアか、それほどでもないものか、つまり使って傑作にできそうかそうでないか、これがよく解ります。

それほどでもないなと思ったにしても、悲観するには及びません。そういったレヴェルのアイデアも、二つ三つ組み合わせることで、傑作が生まれることがあります。あるいは、ほかの作品の装飾の部分として、これを使うという方法もあります。あるいは裏返す。たとえばそのアイデアが完全殺人を狙う計画で、一年経って読み返して「たいしたことないな」と思ったとします。そうなら、これを作中で実行させ、失敗させてみるわけです。失敗させて、ストーリーが活きることはよくあります。

新人のうちは、これができないことがよくあります。うまい計画がある。実行し、成功した、ついついそういうストレートな書き方ばかりになります。でもリアリティとかビリーバブルさは、多く失敗から生まれるんです。失敗が思いがけずよいミステリーを生み出すことがあります。

計画という対象への見方を変えるんです。上から俯瞰して見る。裏から見てみる。犯人の側から見る。警察の側から見る。被害者の側から見る。すると、さまざまな展開の可能性が見えてきます。みなさんもやってみてください。

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