2010年度 山村教室開講式 島田荘司先生×森村誠一先生ご対談 2

島田先生 解りました。私がデビューしたのは二十五年、いや、三十年近く前です。どうしてデビューしたのか? 先ほど挙げた、森村先生の『高層の死角』を読んだということもありました。高木彬光さんの作品もたくさん読んでいました。これを言うと意外と思われるのですが、実は清張さんの作品も、好きでたくさん読んでいました。もちろん、乱歩さんもです。高木彬光さんと森村先生が一番多かったかもしれませんねぇ。

その頃、わたしが何故書こうと思ったか? それは「稚気」ですね。これを問えばみんな悩むだろう。でもその悩みは楽しいものだろう。こういうクイズを出して、答えをどうぞ考えてみてくださいと言った時、戻る答えの大半は間違っているだろう。そのうえで自分が正解を言ったら、きっとみんな驚くだろうな。そうやってみんなを驚かしてみたいな、とそういう気分でした。これが原動力になりましたね。もの陰に隠れていて、みんなをわっと言って驚かしてやりたいなというあの気持ち。あくどいやり方ではなく。

それからもうひとつは、本格のミステリーというものに対して、アンテナを立てていて、そのことを毎日毎日考えていると、アイデアが降ってくるのですね。頭が新鮮ですので、真剣に思い詰めていれば、アイデアが降ってきて、タイトルもまた降ってくるのです。タイトル付けの能力とか、クイズを作る能力とかは、小説を書く能力とはまた違うものかもしれない。最初のうちはそれがひとつにならなくて悩むかもしれないです。私の場合、それらがそれぞれ暴走していったのですが、それは結果として、幸せなことだったと思っています。アイデアがたくさんあって、これも書きたい、あれも書きたい、みんなを驚かしてやりたいという気持ちが、大変強かったのですね。

今も割合読者に記憶されているもの、全集各巻に柱として入るような作――私の中で言えば、『漱石と倫敦ミイラ殺人事件』、『異邦の騎士』、『死者が飲む水』、『占星術殺人事件』、『斜め屋敷の殺人』、『都市のトパーズ』、これらはみな、実はデビュー前に書いていたものです――『火刑都市』もデビュー直後、依頼されたからではなく、勝手に書いて持っていました。驚く人もいるかもしれませんが、手元に置いて、発表する場所を探していたんです。

『漱石と倫敦ミイラ──』などは、夏目漱石は出てきますが、あとは全部外国人で、出版することが非常に危ぶまれたのですね。当時、外国人ばかりが登場する小説は、なかなか読まれませんでした。

そう思えば、重要な作品は、みんな自発的に書いて持っていたものですね。そういうものの方が、本気の読者の方々の記憶には、残っています。今森村先生が声をかけて下さった「分数」のシリーズで、最初の『はやぶさ1/60の壁』は、編集者に言われて書いたもので、もともと短編のアイデアだったから、不遜なことです

が、「えっ、これでいいのか」と当時思ったものです。つまり、そう込み入っていないストーリーの方が、一般には喜ばれるんです。一般読者はマニアではありません。みんな日々の仕事で忙しいですからね。けれど今読者の記憶に残っているのは、仕掛けの込み入った、本格の物語です。

分数シリーズはよく売れましたが、それは光文社のKAPPAブランドが、森村先生や清張さんのおかげでブランド性を保っていた、つまりKAPPAというブランド自体が、大勢のファンを持っていたからだと思います。そうですね、『北の夕鶴2/3の殺人』などもありましたね。このころのお話をしましょうか……。

私があの頃、たくさん作品を書けたモチベーションは、アイデアがたくさん貯まっていたので、それでもってみんなをあっと驚かせたい、という悪戯心のゆえですね。単純なものてす。当時は文学的であろうとか、世の中の人々を啓蒙しようとか、今日の社会の問題点をえぐろうとか、そういった意識はまったくありませんでした。そういうものも、次第に出てくるのですけれどもね。

←前へ|2|次へ→
1234567891011