2010年度 山村教室開講式 島田荘司先生×森村誠一先生ご対談 11

森村先生 今思い出しましたけど、島田さんは以前、ご自分の文章の中で、非常に著名な流行作家二人の作品をあげて、「これを悪口と思われると大きな誤解である。悪口と受け取られては困る。けれども、この二人は人間を書いていない」というようなことを書いておられたエッセイがあった。それを読んで、私は衝撃を受けたのです。

文学というものは、人間と人生を追求するのが第一義とされています。それに疑いを持つ者はあまりいない。ところが、島田さんの言葉によって、文芸とはそんな狭いものではない、人間を描かなくても文芸たり得ることがあるということが、解りました。本格とは、本格という推理の建物の中で、人間が動くのです。人工の美学です。だから、ミステリーでなくても、人生や人間が描かれなくても、逆に面白い文芸、価値のある文芸ができるのです。だから、キャラクターは、そういう広い視野で考えると、面白いキャラクターというものもできてくるのです。

島田先生 その通りだと思います。私もよく選考会などで言うのですが、受賞作にも、いろいろと不備な点はあります。それらは、箇条書きのように、挙げる気になればたやすいものです。しかし私はそういう時、減点法は採りません、とはっきり言います。そういう主義なんです。不達成な部分は、背骨を傷つけるような種類のものでなければ、そのまま作品を磨く際のアドヴァイスになるのですね。

単純な減点法感覚で、「これとこれがないから、これは駄目な作品だ」などと無思慮に言うと、大事な本質部分をあっさり見逃すことがあります。かつての『占星術殺人事件』のようにですね。大事な要素とそれほどでもない要素との優先順位が、選者に見えなくなります。

また評論家が困ることもありますね。大文学者の名作にだって、人間描写が不充分であったり、避けていることはありますから。今森村先生がおっしゃった通り、文芸にはさまざまな形態があるし、むしろ人間を描かないことによって、傑作が現れてくることもあるのです。

森村先生 もう時間が迫ってきましたね。では最後に島田先生から、ここにいるみなさんが、これからも志を持って書き続けていけるよう、何かメッセージをいただけますか?

島田先生 私は三十年近く前、四面楚歌の中でデビューしました。今でも憶えていますが、乱歩賞の『占星術殺人事件』への選評で、「このような仕掛けは、パロディとしてしか使うことはできないであろう」と言った人もいました。

フレッド・アステアという不世出の天才的なダンサーがデビューした時、ある人が映画界に向けて、「まあまあ踊れる人物だ」という紹介文をつけたと言います。そんなものなんですね。威張りたい人たちは、多く盲目です。権威発想に関わらず、純粋な創造心を持ち続ける人だけが、濁らない目を持つのです。デビュー当時のあの頃、私は不安いっぱいで文章を書いていました。今、みなさんもきっとそうでしょう。あれから三十年という歳月が経過しましたが、私の思いは、あの頃のままです。

今も、これから先も、私は上から目線でものを言ったり、威張ったりすることはありません。みなさんの中に、あのころの私のように、-不安いっぱいで、自分がどこへ行くのかも解らないが、強い創作の衝動だけは持てあますほどにあるという人。そしてついに、これが活字になって世に出なければ間違いだと思えるような作品、あの頃の私の『占星術殺人事件』のようなものが書けた人は、是非、私とか、森村先生に見せてほしい。

その作品が世に出るべきだと私たちにも思えたならば、その人が無名だろうが、五歳だろうが、八十歳だろうが、関係ない。その作を世に出すために全力を挙げます。これは、お約束します。

だからみなさんも、今日申し上げたような発想を持ち、文章が安定するまでは、一日も休まずに書いてほしい、アイデアのメモも書いてほしい。

その先で、みなさんにもし幸運があるならば――必ずそうなると思います、私がそうでしたから――きっと、大きなアイデアに行き当たると思う。そうしたらそれを逃さず、ものにしてください。その作に自信があるならば、応募してもらうのもいいが、もしも落ちそうだと不安を感じるなら、直接見せてください。いいですか? 待っていますよ。

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